1996年 「百年構想」誕生秘話<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
博報堂ではなくコンペ形式となった理由
当時の広報スタッフである加賀山、藤ノ木、松田(左から順)にコンペ形式となった経緯を聞いた 【宇都宮徹壱】
「Jリーグ設立にあたって理念がない組織は駄目だって『理念』という言葉を私が最初に聞いたのは、当時の幹部の方々からだったと記憶しています。だからJリーグの規約を作るときも、きちんと理念は盛り込まれています。川淵さんはその後にきちんと理念をPRしようと言ったんだけれど、いつくらいだったですかねぇ」(加賀山)
「僕が広報マネージャーになった95年に、川淵さんから『理念をきちんと伝えていきたい』と言われましたね。開幕からの2シーズンはブームもあってJリーグが盛んにメディアに取り上げられましたけれど、川淵さんは『Jリーグが本当に目指しているものを伝えたい』という思いが強かったようです」(松田)
「Jリーグの開幕宣言で、川淵さんが『スポーツを愛する多くのファンの皆様』と言っている通り、川淵さんには、Jクラブをサンプルにして、地域に根付いたスポーツクラブを日本各地につくっていくという強い思いがありました。その一方で、94年の暮れ頃から(ヴェルディ川崎の呼称問題で)読売の渡邉恒雄さんとの論争が過熱し始めたこともあり、Jリーグの理念をストレートに伝える必要性を感じていたんじゃないでしょうか」(藤ノ木)
Jリーグ開幕直前の93年4月に広報スタッフとなった藤ノ木は、コピーライターの仕事をしていた時代があり、企業のCI(コーポレート・アイデンティティー)に関わった経験もあった。「これはJリーグのCI活動だな」と直感した藤ノ木は、コンペ形式にしたほうがよい案が出てくると考え、上司である松田に了解を取ったという。
「そのあと木之本さん(興三=当時常務理事。故人)にお話したら、『よし、それじゃあチェアマンに提案しよう』となって、私を川淵さんのところに連れて行ってくれたんです。そんなに大して説明していないのに『いいよ』って、わりとすんなり決まりましたね。コンペについては、博報堂と電通のほかにもう1社が参加していたと思うんです。でも当時の手帳を見返してみると、オリエンテーションの記録が残っていたのが電通と博報堂だけでしたので、2社コンペだったのかもしれないですね」
<後編につづく。文中継承略>