モドリッチがポニーから軍馬になるまで 紆余曲折の末に輝いたW杯最優秀選手
ユーゴスラビア内戦に翻弄された少年時代
クロアチアのキャプテンとして、チームをW杯決勝に導いたモドリッチ 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
クロアチア西部、ザダル近郊の村で生まれたモドリッチは、1991年に勃発したクロアチア紛争から逃れるため、戦争難民として子供時代を過ごした。数年間はザダルの荒廃したホテルで暮らし、まだ小さかったルカはそこの中庭で1日中、ボールを蹴って遊んでいた。地元クラブのNKザダルに所属するようになると、直にクロアチアを代表するトップクラブであるディナモ・ザグレブに引き抜かれた。
その頃から有望株として注目されていたが、必ずしも全ての人が彼の才能を認めていたわけではない。彼の小柄な体格を理由に、トップレベルでは通用しないと決めつけるコーチもいた。ディナモでも壁にぶつかり、ボスニア・ヘルツェゴビナ1部リーグに所属するズリニスキ・モスタルへ期限付き移籍に出された。
同リーグのレベルは決して褒められたものではないが、若手選手にとっては経験を積める貴重な場だった。何年も先のことになるが、モドリッチ自身も「ボスニアのリーグでプレーできれば、他のどのリーグでもプレーできる」と振り返っている。無論、リーグのレベルについて言及したのではなく、敵チームが容赦なく蹴りを入れてくるような過酷さを指摘したのだが、おかげでモドリッチは若くして才能豊かなテクニシャンから“戦える男”へと成長を遂げることができた。
リーグの最優秀選手賞を引っ提げてレンタル先から戻ってきたモドリッチだが、彼を待っていたのは出場機会ではなく、さらなるレンタル移籍だった。今度はクロアチア1部のクラブとはいえ、かなり格下のインテル・ザプレシッチだった。当然、本人は納得しなかった。だが、決して口答えもしなかった。他の選手ならば、自分を放出するようクラブに直談判するか、国外移籍を求めて代理人に泣きついたかもしれない。しかしモドリッチは、そういう男ではない。彼は自分の置かれた状況の中で戦い続け、好プレーを繰り返し、チームの2位躍進に貢献したのだ。
イングランドとスペインで世界最高のMFに
07年、ディナモ・ザグレブでプレーした当時のモドリッチ 【Getty Images】
06年からは代表チームにも定着した。そして迎えた今大会、彼だけでなく、マリオ・マンジュキッチや、もしかするとイバン・ラキティッチにとってもキャリア最後となるW杯で、世界中を驚かせた。98年フランス大会でクロアチアを3位に導いたズボニミール・ボバンやダボール・シューケルらの偉業を超える活躍を披露したのだ。
「これまでの人生でいろいろと経験してきたからね」と、モドリッチはフランスとの決勝戦の前日会見で、まるで選手キャリアと人生を振り返るかのように語った。
「一番大切なことは、決して諦めずに、自分を信じ抜くこと。人生に浮き沈みはつきものさ。ただ、自分の夢のためには戦わなくてはいけないんだ」