2003年 W杯というレガシー<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

「日本海側に光を!」で決まったW杯招致

「スポーツによる町興し」というアイデアを実行に移した池田弘 【宇都宮徹壱】

「日本海側に光を!」──新潟の奇跡は、96年当時に県サッカー協会の理事長だった澤村哲郎(故人)のこの一言から始まった。同年の5月31日、それまでW杯招致合戦でしのぎを削っていた日本と韓国の共同開催が決まると、それぞれの開催国は15の開催候補地を10に絞る決断を迫られる。「サッカー不毛の地」新潟の落選は必定と思われていた時、澤村の渾身のアピールが決め手となり、96年のクリスマスに新潟は開催地に正式決定した。もっとも澤村の功績について、もう1つ忘れてならないことがある。それは、のちにアルビレックス新潟の社長(現会長)となる池田弘を引き入れたことだ。

「4年前に亡くなられた澤村さんは、周りからちょっと浮くくらい招致活動に熱心でしたね。何度か僕のところに来て、W杯がどれだけすごいイベントなのか熱っぽく語ってくれたの。実は94年のW杯(米国大会)の時、招致活動で新潟県もブースを出したんだけれど、その時に僕も現地に行って、そこで初めてW杯というものを見たんだ。その時にふと、『こんなにすごい大会を新潟に呼ぶことができたら、地元の人たちのマイナー思考を変えられるんじゃないか』と考えたんですよ」

 もともと地元の宮司であった池田は、のちにNSG(新潟総合学院)グループとなる学校法人を立ち上げた経営者でもあった。すでに70年代後半から過疎化の兆しがあった新潟で、その流れに歯止めをかけなければ地域コミュニティーが成り立たなくなる。若者にこの地にとどまってもらうには、やはり教育が必要だ。地域と密接に関わる宮司の仕事と教育産業のマッチングは、池田の中ではまったく違和感はなかった。だが、地元で学んだ若者たちは、やはり新潟を離れていってしまう。なぜか? 新潟に「これ」といった魅力がないからだ──。池田がJリーグと出会うのは、そんな自問自答をしていたころであった。

「Jリーグが始まって3年くらい経ったころですかね。日経新聞の『行ってみたい町ランキング』みたいな企画があって、京都や金沢と伍するかのように鹿嶋市が4位に入っていたんですよ。理由はもちろん、鹿島アントラーズの存在。鹿島神宮しかないような町が、Jリーグによって脚光を浴びるようになった。でもいろいろ調べてみると、英国のマンチェスターにしてもリバプールにしても一時は衰退したけれど、人気サッカークラブがあることで活気を取り戻しているんですよね。鹿嶋もそういうことなのかなと」

 それまでサッカーとの接点がなかった池田にとり、当初のJリーグに対するイメージは「茶髪の兄ちゃんがボールを蹴ってチヤホヤされている」というものでしかなかった。ところが「スポーツによる町興し」というアイデアが生まれ、さらに「2002年W杯」という追い風が加わることで、これまでまったく想像もし得なかったムーブメントの胎動が生まれる。もっとも、真の意味での「ニイガタ現象」が確認できるまでには、21世紀の到来を待たなければならなかった。

<後編(6/28掲載予定)につづく。文中継承略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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