2003年 W杯というレガシー<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
「日本海側に光を!」で決まったW杯招致
「スポーツによる町興し」というアイデアを実行に移した池田弘 【宇都宮徹壱】
「4年前に亡くなられた澤村さんは、周りからちょっと浮くくらい招致活動に熱心でしたね。何度か僕のところに来て、W杯がどれだけすごいイベントなのか熱っぽく語ってくれたの。実は94年のW杯(米国大会)の時、招致活動で新潟県もブースを出したんだけれど、その時に僕も現地に行って、そこで初めてW杯というものを見たんだ。その時にふと、『こんなにすごい大会を新潟に呼ぶことができたら、地元の人たちのマイナー思考を変えられるんじゃないか』と考えたんですよ」
もともと地元の宮司であった池田は、のちにNSG(新潟総合学院)グループとなる学校法人を立ち上げた経営者でもあった。すでに70年代後半から過疎化の兆しがあった新潟で、その流れに歯止めをかけなければ地域コミュニティーが成り立たなくなる。若者にこの地にとどまってもらうには、やはり教育が必要だ。地域と密接に関わる宮司の仕事と教育産業のマッチングは、池田の中ではまったく違和感はなかった。だが、地元で学んだ若者たちは、やはり新潟を離れていってしまう。なぜか? 新潟に「これ」といった魅力がないからだ──。池田がJリーグと出会うのは、そんな自問自答をしていたころであった。
「Jリーグが始まって3年くらい経ったころですかね。日経新聞の『行ってみたい町ランキング』みたいな企画があって、京都や金沢と伍するかのように鹿嶋市が4位に入っていたんですよ。理由はもちろん、鹿島アントラーズの存在。鹿島神宮しかないような町が、Jリーグによって脚光を浴びるようになった。でもいろいろ調べてみると、英国のマンチェスターにしてもリバプールにしても一時は衰退したけれど、人気サッカークラブがあることで活気を取り戻しているんですよね。鹿嶋もそういうことなのかなと」
それまでサッカーとの接点がなかった池田にとり、当初のJリーグに対するイメージは「茶髪の兄ちゃんがボールを蹴ってチヤホヤされている」というものでしかなかった。ところが「スポーツによる町興し」というアイデアが生まれ、さらに「2002年W杯」という追い風が加わることで、これまでまったく想像もし得なかったムーブメントの胎動が生まれる。もっとも、真の意味での「ニイガタ現象」が確認できるまでには、21世紀の到来を待たなければならなかった。
<後編(6/28掲載予定)につづく。文中継承略>