98年W杯、秋田豊が痛感した世界との差 「選手たちが同じ方向を向けるかどうか」

飯尾篤史

「まだW杯で勝つレベルには達していなかった」

W杯フランス大会に出場し、バティストゥータ(右)らと対峙した秋田に当時を振り返ってもらった 【写真:アフロ】

 コテンパンに打ちのめされたわけではない。すべてのゲームで、試合終了を告げるホイッスルが鳴るまで「追いつける」との想いが途切れることはなかった。だが、アルゼンチンに0−1、クロアチアに0−1、ジャマイカに1−2と、3戦全敗に終わった。

 日本代表が世界デビューを飾った1998年のワールドカップ(W杯)フランス大会。全試合でスタメン出場を果たしたDF秋田豊はアルゼンチン戦、クロアチア戦で確かな手応えをつかんだが、それでも勝てなかったことに、世界との決して小さくない差を感じたという。

「最近、見返す機会があったんだけど、あの時の日本代表はすごく良いチームだったと思うんだ。この時代に、こんな良いサッカーができたんだって。でも、ひとつも勝てなかった。相手は決めたけれど、僕らは決められなかった。FWだけのせいじゃなく、俺自身もアルゼンチン戦でゴールのチャンスがあったのに、決められなかった。Jリーグでは決めている場面だったのに。余裕がなかったんだと思う。やっぱり、まだW杯で勝つレベルには達していなかったっていうことだね」

Jリーグにもワールドクラスがゴロゴロいた

JリーグでワールドクラスのFWと対戦していた秋田は、W杯でもおじけづくことはなかった 【写真:アフロ】

 W杯開幕の半年前となる97年12月、本大会の組み合わせが決まったとき、秋田の気持ちは沸き立った。

「バティ(アルゼンチンのガブリエル・バティストゥータ)と(クロアチアのダボル・)スーケルは当時、世界の5指に数えられるストライカーでしょ。特にバティとの対戦は楽しみだった。自分がどれだけやれるのか。彼を抑えることができたらとか、いろいろなことを想像したよ」

 世界最高のストライカーとの対戦に、おじけづくことはなかった。当時のJリーグにはワールドクラスのFWがゴロゴロいたし、秋田にはその頃、自身のキャリアにおいて最高の状態を迎えているという感触もあったからだ。

「ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)、(サルバトーレ・)スキラッチ、(パトリック・)エムボマ、(ラモン・)ディアス……そんな選手たちとJリーグで対戦していたわけだから、海外でプレーしているのと同じ感覚。だから、バティはエムボマかな、スーケルはディアスとどっちが上かなって、イメージがしやすかった。

 それと、96年にケガをして、その間、自分のプレーを見つめ直したの。ヘディングやマークには自信があったけど、インターセプトやカバーリングも身に付けて、さらにレベルアップしようと考えた。それで、鹿島(アントラーズ)でコンビを組んでいた奥野(僚右)さんのプレーを見て研究したり、アドバイスをもらったりした」

 こうした試みが奏功してプレーの幅を広げた秋田は、97年9月に開幕したW杯アジア最終予選でMVP級の活躍を見せ、初の出場権獲得に貢献するのだ。

 対戦相手決定を受け、秋田は代表のスタッフから映像を借りて分析に励んだ。

「これはJリーグで学んだことなんだけれど、スーパーなストライカーでも、すべての能力がすごいわけじゃなくて、『これ』という武器が並外れてすごいわけ。逆に言えば、その武器を消せれば、普通の選手になる。だから、バティの武器は何か分析した。それで分かったのが、『ここ』という瞬間のスピードとパワー、シュートのうまさ。だから、ボールを受けさせてもいいから、とにかく前を向かせないようにしようと考えた」

カズの落選がチームに与えた衝撃

W杯直前でのカズ(左)の落選はチームに衝撃を与えた 【写真は共同】

 日本代表は5月にパラグアイ、チェコとの親善試合を戦い、キャンプ地のスイスへと旅立った。心身ともに充実した状態だった秋田とは裏腹に、この頃、日本代表は重要な局面を迎えていた。25人から22人への本大会メンバーの絞り込みで、三浦知良、北澤豪、市川大祐の3人が外れることが決まったのだ。

 とりわけ、日本サッカー界を引っ張ってきたカズの落選はチームに衝撃を与えた。もちろん、秋田も驚いたという。

「監督が決めたことだから割り切らなきゃいけない、って自分に言い聞かせて、動揺しないようにしていた。ただ、正直に言うと、予選が始まる前のカズさんと、予選が終わる頃のカズさんが違っていたのも事実。それまでは紅白戦で対峙(たいじ)すると、カズさんにまったく届かないところまでかわされてシュートを打たれていたけれど、それが届くようになって、シュートまで持ち込ませないようになって。そういう感覚が確かにあったんだよ。(監督の)岡田(武史)さんもそういうところを見抜いていたのかもしれない」

世界との差を感じた「冷静さ」と「余裕」

バティストゥータは一瞬のスキを逃さずに決勝ゴールを決めた 【写真:アフロ】

 迎えた98年6月14日、秋田はトゥールーズのスタジアム・ミュニシパルのピッチに立った。日本人サポーターがスタンドを青く染めていたから、アウェーの雰囲気も、W杯の舞台であることも、特に感じなかったという。

「ただ、目の前には世界的に有名な選手たちがいるし、チームメートの表情もいつもとは違っていたから、緊張感はすごくあった。普段と同じモチベーションで臨みたいと思っていたけれど、やっぱり背負っているものの重みは感じていたと思う」

 もっとも、それが気負いとなってプレーが空回りすることはなかった。当時の映像を見返せば、バティストゥータの背中に張り付くようなマークで振り向かせず、裏を取られかけてもリカバーし、秋田が相手のエースをほとんど完璧に封じ込めていたことが分かる。あの瞬間までは――。

 前半28分、日本陣内でディエゴ・シメオネからアリエル・オルテガへパスが出る。オルテガがスルーすると、背後にいた名波浩の足に当たって、バティストゥータのもとにボールがこぼれてしまう。

 このとき、秋田は攻撃参加してきたマティアス・アルメイダのマークに付いており、バティストゥータをマークしていた井原正巳は、マークを捨ててオルテガを潰そうとした。

 つまり、バティストゥータはその瞬間、フリーになったのだ。その一瞬を、バティストゥータは見逃さなかった。

「あれはアクシデントだから、バティも予測していたわけじゃないと思う。でも、しっかりコントロールして、しっかり決めた。それも、飛び出してきた(GKの川口)能活の動きを見て、ちょん、ってシュートを浮かして」

 この冷静さ、この余裕こそ、秋田が痛感した世界との差だった。

 例えば、1点を追う後半36分、CKの流れから日本にチャンスがめぐってくる。山口素弘のクロスに秋田が飛び込み、ヘディングシュートを見舞ったが、わずかに枠を逸れてしまう。

「今思うと、ニアを狙うべきだった。余裕がなかったんだよね」

 あるいは、続くクロアチア戦の前半33分、中田英寿のクロスをゴール前で受けた中山雅史がシュートを放ったが、相手GKドラゼン・ラディッチのスーパーセーブによって防がれた。

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著者プロフィール

東京都生まれ。明治大学を卒業後、編集プロダクションを経て、日本スポーツ企画出版社に入社し、「週刊サッカーダイジェスト」編集部に配属。2012年からフリーランスに転身し、国内外のサッカーシーンを取材する。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)、『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』(講談社)、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』(KKベストセラーズ)などがある。

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