エンゼルスを率いる名将ソーシア監督 大谷の活躍が今後の監督人生を左右!?
現役時代はドジャースの名捕手
大谷(左端)と話すエンゼルスのソーシア監督(中央) 【Getty Images】
もともとは高校卒業時の1976年に、ドラフト1巡目指名で捕手としてドジャースに入団。80年にメジャー初昇格を果たすと、翌81年はストライキでシーズンが短縮される中で、91試合にマスクを被った。頭のいい彼はスペイン語を覚え、ルーキーながらサイ・ヤング賞に輝くことになるメキシコ出身のフェルナンド・バレンズエラとも、積極的にコミュニケーションを図った。この年、ドジャースは16年ぶりにワールドシリーズを制覇し、ソーシアは22歳にして名門ドジャースの正捕手の座を確立した。
捕手としてのソーシアは、当時のアル・キャンパニスGMに「50年近く野球界にいるが、彼が一番じゃないか」と言わしめるほどの、鉄壁のブロックで知られた。今のようなコリジョンルールが適用されるはるか昔、メジャーの捕手は体を張って本塁を守り、走者はそれに体ごとぶつかっていくのが日常茶飯事だったが、ソーシアはどんなに体の大きな走者が相手でもひるまず、脳震とうを起こしてもボールは離さなかった。
右肩回旋筋断裂で83年シーズンの大半を棒に振りながら、その後もおおむね3割を超える盗塁阻止率を維持し、リードの良さにも定評があった。打っては85年に自己ベストの打率2割9分6厘(ナ・リーグ12位)をマーク。翌89年からは2年連続で2ケタ本塁打を放つなど、相手投手にとっては侮れないバッターでもあった。
88年には、リーグチャンピオンシップ第4戦でメッツの大エース、ドワイト・グッデンから起死回生の同点2ランを放ち、ワールドシリーズでは当時メジャー最強と言われたアスレチックスを4勝1敗で破って、自身2度目の“世界一”。89、90年は連続でオールスターに選ばれ、90年のオフにはMLBオールスターの一員として日米野球にも出場した。
しかし、有為転変は世の習い。のちに野球殿堂入りするマイク・ピアッツァの台頭に押し出されるように、92年限りでドジャースを退団。93年はパドレスに移籍したが、開幕前に再び右肩回旋筋を断裂すると、翌94年はレンジャーズで再起を図るも叶わず、8月に現役引退を表明した。結局、ドジャース以外のユニフォームで試合に出ることはなく、捕手として1395試合の出場は今も球団記録として残っている。