福岡の選手たちが高校生へエールを送る 高校サッカーかユースか、それぞれの選択
福岡の選手たちに選手権を振り返ってもらった。写真は04年、国見高校時代の北斗(8番)と城後(5番) 【写真:アフロスポーツ】
勝たなければいけない大会だった 中村北斗の場合
決勝に3年連続で出場した中村北斗にとって、選手権は「これが最後でもいいやと思える場所」 【写真:川窪隆一/アフロスポーツ】
「1年生の時からレギュラーだったと思われているようですけれど、1年生の時はBチームで、予選にも出ていないんですよ(笑)。大会の1週間前にやったフォーメーションがたまたまハマッて、じゃあ出ろと。いきなりの試合が選手権の1回戦でした」
そんな選手権の思い出は、「勝たなければいけない大会だった」ということ。
「選手権に憧れて国見に入ったんですけれど、入ってみたら大違い。勝ちたいというよりも、優勝しないとダメという使命感みたいなものでやっていました。しかも優勝して喜べるのは3年生だけ。2年生は翌年があるので終わりじゃないですから」
2年生の時に準優勝した後に撮った写真は、みんな1回戦で負けたような顔をしていると話す。それでも、多くの高校生と同じように、北斗にとっても特別な大会であったことに変わりはない。今でも、思い出の試合の多くが選手権の試合と話す。そして、高校サッカーを戦う全国の後輩たちにメッセージをくれた。
「これが最後でもいいやと思える場所。しかも、大会が終われば、その時のチームメートが全員そろってサッカーをすることは一生ない。80分しかないけれど(決勝は90分)、それをかみしめながら頑張ってほしい」
国立は個性を伸ばしてくれる場所 城後寿の場合
城後(右)は「今できることを精いっぱいやってほしい」とエールを送る 【写真は共同】
「正月は父親の実家がある長崎に帰って選手権をテレビで見ることが多く、あの舞台は憧れでした。選手権で活躍すれば、プロになる夢が近づくんじゃないかと思っていました」
城後にとって国見高校へ進学を決めたのは自然な流れだったようだ。最高の思い出は、2年時に優勝したことだと話す。
「(決勝の国立競技場について)ああいう満員の中でプレーすることはプロになっても、なかなかあることではありません。仲間の声もベンチの声も聞こえない中、いいプレーをすると歓声が上がったのを覚えています。『国立は選手の個性を伸ばしてくれる、自分をうまく見せるスタジアム』と小嶺(忠敏)先生から言われていました。あれから13年経ちますが、その言葉は実感として今も残っています」
観客数は4万6754人。国見の全盛期に高校サッカーに関われて良かったと話す。
「高校時代は3年間しかありません。高校時代にしかできないこともあるし、戻ろうと思っても戻れないので、今できることを精いっぱいやってほしいですね。また、サッカー以外でも、社会に出た時に大事になることはたくさんあるので、それもおろそかにせずにやってほしいと思います」
城後らしい真面目なメッセージ。それは彼が国見高校時代に学んだことなのだろう。
プロになるためだけにやっていた 岩下敬輔の場合
鹿児島実業への入学は、岩下にとってプロになるための選択だった。左は渡辺千真(神戸) 【写真は共同】
そう話すのは岩下敬輔。国見出身の北斗、城後とは高校サッカー選手権への思いは明確に違う。
当時の九州は高校サッカーの全盛期。その実力は九州内のクラブチームのそれを上回るもの。しかも、ユースクラブとあいまみえる高円宮杯でも九州の高校は好成績を挙げていた。中学の時に、プロになるために父親と2人で実家を離れて桜島町立櫻島中学校へ入学した岩下が鹿児島実業のサッカー部を選んだのは、強いところでサッカーをするというシンプルな理由からだった。
しかし、ユースと違って、高校の部活は勝ちたいという思いは一緒でも、それぞれのサッカーに対する価値観が違う。その中でキャプテンを任された岩下は、苦労は多かったと話す。
「僕はプロになるために鹿児島実業に行きましたけれど、他の選手にはそれぞれの価値観があります。温度差がある中でチームのことも考えないといけないし、自分の目的も忘れてはいけない。でも、それを分かった上でキャプテンをやらされていたので、難しいことは多かったですよ」
ただ、その時の経験が彼のキャプテンシーを磨いたであろうことは想像に難くない。