7度目の引退を目前に控えた大仁田厚 「青春が詰まった後楽園で幕を引きます」

ミカエル・コバタ

体に風が通り抜けるのを感じた最初の引退

「もうオレの時代じゃない」――。プロレスを取り巻く環境の変化も感じている 【スポーツナビ】

――全日本での最初の引退後、復帰したときの経緯はどんな感じだったのでしょうか?

 東京体育館でのヘクター・ゲレロ戦(1983年4月20日)で、左膝を粉砕骨折して、1年を経て、復帰したんだけど……。当時サポーターなんかなくてね。自転車のチューブを足に巻きながら、痛みをこらえて試合したよ。

 自分のなかで、限界だって分かるんだよ。引退した後、後楽園ホールの駐車場にたどり着いたとき、初めて体に風が通り抜けるのを感じたんだ。言葉で表現するのは難しいんだけど、風が自分の体を通り抜けて、穴が開いたような状態になったんだ。なんか虚しさがこみ上げてきてね。

 ボクは15歳11カ月で、全日本に入門したから、プロレスしか知らない。それで大人になった。そんな男が右も左も分からない世の中に放り出されて、何をしていいかも分からない。差し当たって生きていかなきゃいけないから、肉体労働もしたし、4トントラックで産業廃棄物を捨てに行く仕事もした。6万円でバンを買って、宅配便のような仕事もしたりした。だけど、たぶんプロレスの燃えかすみたいなものが残ってたんだろうね。体に染みついたものがある。初めて就職先を探すんだけど、履歴書に高校中退って書いて……どこも採用なんかしてくれないんだよ。

 そんなとき、新宿駅のいちばん端の方で、缶コーヒーを飲みながら考えたんだよ。「オレは何をしたらいいのか?」って。そのとき、「イチかバチかやってみるか!」って思ってね。ジャパン女子プロレスのコーチの話とかいろいろあって、女子のリングでグラン浜田さんと試合をしたら、大ブーイングを食って……。もう最低の人間みたいな言い方をされたよね。不思議なもので、今では女子プロの興行で男子の試合が組まれるのも普通になってるし、男子の興行で女子の試合があってもいいじゃない? それをFMWでやって、ミクスドマッチもFMWでやったのが初めてだった。

――確かに当時は、1つの興行で男子と女子の試合があったり、ミクスドマッチをやったりなんて、異端でしたからね。

 何かを起こすためにはやってみないとダメなんだよ。あのWWE(旧WWWF、WWF)だって、最初はインディーだった。ビンス・マクマホンJr.のオヤジさんがやってたニューヨークの小さな団体だった。当時はNWAという世界的な団体があったからね。それが、メディアに乗せていって、大きくして、WCWも吸収したりして、今のWWEを創り上げた。そういう反骨精神が必要なんじゃない。

――なるほど。

 ボクは田舎を回るのが好きで、「イジメ撲滅」「地方創生」を掲げて、全国300カ所くらい回りました。それで感じたのは、どんなに田舎に行っても、潜在的にプロレスファンがいるんだよ。おじいちゃんや、おばあちゃんが来てくれるんだよ。なぜかって、力道山時代があるからだよ。サッカーにはじいちゃん、ばあちゃんは来ないでしょ? 野球だって、あまり来ないでしょ? 力道山時代があって、BI砲(馬場、猪木)時代があって、オレたちの時代があって、今の世代のプロレスがある。確かに力道山時代とはプロレスのスタイルは変わったかもしれないし、時代も変わった。だけど、プロレスって、どんな田舎に行っても、大衆文化として脈々と受け継がれて、根付いてるんだよ。それを痛感したね。この前も鳥取に行ったら、3000人くらいの人が集まって楽しんでくれた。プロレスはスポーツというくくりにすると難しい。ある種のエンターテインメントなんです。世の中の流れで、流血戦や凶器なんかは排除されていく。これももう仕方のないこと。なぜ引退するのかって、もうオレの時代じゃないからですよ。

FMWでの成功がなかったら他団体時代は迎えなかった

お台場大会ではカシン(中央)らにボロボロにされた。それでも後楽園に向けて、戦い続ける 【写真提供:大仁田事務所】

――そうは言っても、まだまだ支持しているファンが多数いますが……。

「まだ続けられますよ」って、言われるけど、体力的なものがあるんだよ。傷めている膝、肩、右手の問題もあるしね。10月9日のお台場(野外特設会場)大会で、藤田たちにボロボロにやられて思ったんだけど、引退らしく最後は頑張んなきゃいけないのかなって……。これまた生き様なんだろうね。まぁボクの場合、スポーツのくくりで、スポナビさんなんかに載せちゃいけないんじゃない?(笑)

 面白い傾向があって、30年くらいボクを見続けている人が、自分の子どもを連れてくるわけ。その子どもたちをリングに上げて、水をかけるんだけど、「ボクのファンになってくれ!」とは言わないけど、この子たちがプロレスを好きになってくれたらありがたい。現状、プロレスがコンテンツとして素晴らしいなら、民放各局はゴールデンでやってるよ。だけど、プロレスは生き残っているんだよ。ボクの罪なのか、功績なのか分からないけど、今、DDTとかドラゴンゲートとかいろいろな団体があって、地方にもたくさんある。これらを創らせたのはボクでしょ。ボクのFMWでの成功がなかったら、こんなにいろいろな団体ができることはなかったと思うよ。でも、ボクが頑張ったからとは思わない。みんな頑張ったんだよ。高木三四郎選手も、CIMA選手も。

――確かにFMWの隆盛がなかったら、後発のインディー団体はできていなかったかもしれないですね。

 それから、ボクの存在がどういうもんだか分からないけど、不思議なもので、業界ではみんな「大仁田が好きだ」って言えないらしいよ(笑)。でも、聞こえてくるんだよ。「新日本のジュニアの選手が、大仁田のファンらしい」とか……。鷹木信悟選手(ドラゴンゲート)やKAI選手(フリー)なんかはカミングアウトしたけどね。8月に米国のCZWで電流爆破をやったんだけど、「米国で、ボクがどれだけ認められているのか?」って思って行ったんですよ。そしたら、1500人くらいのファンがサイン会に並んで、チケットはソールドアウト。ありがたかったですね。オレがやってきたハードコアというスタイルが、サブゥーが持ち帰った1本のビデオテープから全米に広がった。昔テネシー州で有刺鉄線を使ったりとかあったけど、それを改良してね。電流爆破、ハードコアというのが1つのジャンルとして、米国でも確立していた。ファンはみんなハードロックかパンクかっていうヤツらなんだけど、「ウエルカム・サー」と言ってくれる。「米国でこんなに有名だったんだ。ひとつのジャンルを築いたんだ」って、自信になりました。その経験も、6回も引退、復帰してなかったら味わえなかったかもしれない。それを思うと、罵声を浴びながらもやった意味があったのかなって……。

 こんなに引退、復帰を繰り返して、自分でも許されないことは分かっている。ただ人に迷惑をかけているわけじゃないし、犯罪をやったわけでもない。そのとき、そのときで、引退するときの思いがあったんだけど、その後、なんか燃え切れない自分がいたんだろうね。帰ってきたときは持ち上げるまで苦労したもんだよ。ただ今回は年齢的なものもあるし、思い切り戦えない自分が許せないから、もうこれで最後だね。

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