“邪道”大仁田、7度目の引退は本当か? プロレスラーの「引退劇場」を振り返る
31日の後楽園大会で7度目の引退を迎える大仁田厚。その歴史を振り返る 【写真:SHUHEI YOKOTA】
左膝のケガで再起不能の診断 最初の引退へ
デビュー当時に「若手三羽烏」と呼ばれた渕(左)とは今年、アジアタッグを奪っている 【写真:SHUHEI YOKOTA】
74年4.14後楽園大会にて、佐藤昭雄戦でデビューを飾る。その後、ジャイアント馬場の付き人を務めつつ、渕正信、薗田一治(ハル薗田)と共に「若手三羽烏」と呼ばれ、海外修行にも出発。82年3月には米国にてチャボ・ゲレロからNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取した。
ライバル団体・新日本プロレスでは、81年4月に(初代)タイガーマスクがデビューし、絶大な人気を博しており、大仁田も凱旋帰国後はジュニア戦線での活躍を期待される。しかし、83年4月のヘクター・ゲレロ戦の試合後、左膝蓋(しつがい)粉砕骨折の重傷を負い、一時は医師に再起不能の宣告を受けた。それでも、約1年で復帰を決意するが、以前のような輝きは取り戻せず、84年12月に引退を賭けたマイティ井上戦に敗れ、翌年1.3後楽園大会で引退式が行われた。
縫合箇所1000針を突破 2度目の引退
電流爆破を広めたのも大仁田の功績 【写真:SHUHEI YOKOTA】
その後、自らの団体FMW(フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング)をわずか5万円の元手で設立し、89年10月6日に名古屋市露橋スポーツセンターで旗揚げ戦を行った。翌年、8月4日に東京・汐留で全日本時代の後輩であったターザン後藤とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行ったことで、プロレス界に旋風を巻き起こし、この試合が同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得。
その後も各地でビッグマッチを開催したが、自らの体を張った試合は肉体をむしばみ続け、94年11月には縫合箇所が1000針を突破し、記念パーティーまで行われた。94年5.5神奈川・川崎球場で行われた天龍源一郎戦で敗れ、引退を決意。その後、1年間に渡って「引退記念ツアー」を開催し、翌95年の5.5川崎球場にて、まな弟子・ハヤブサと2度目の引退試合を行った。