“邪道”大仁田、7度目の引退は本当か? プロレスラーの「引退劇場」を振り返る

高木裕美

31日の後楽園大会で7度目の引退を迎える大仁田厚。その歴史を振り返る 【写真:SHUHEI YOKOTA】

“邪道”大仁田厚が、さよなら大仁田実行委員会主催の「大仁田厚ファイナル」10.31東京・後楽園ホール大会をもって、7年ぶり7度目の引退試合を行う。引退試合では、「ストリートファイト トルネードバンクハウスデスマッチ」形式で雷神矢口、保坂秀樹と組んで、藤田和之、ケンドー・カシン、NOSAWA論外組と対戦。かつては「涙のカリスマ」と呼ばれ、熱狂的信者を生み出した大仁田が、度重なる「引退」と復帰に、今回も「本当に引退するのか」と猜疑(さいぎ)的な目が向けられているのも事実。本人いわく「今回は本当に本当に本当です」と主張する今回の引退を機に、これまでのレスラーとしての足跡と、7度目の引退試合が決まるまでの動きを追った(文中敬称略)。

左膝のケガで再起不能の診断 最初の引退へ

デビュー当時に「若手三羽烏」と呼ばれた渕(左)とは今年、アジアタッグを奪っている 【写真:SHUHEI YOKOTA】

 大仁田は1957年10月25日に長崎県長崎市に生まれた。家業の風呂敷屋の倒産や、両親の離婚などもあり、高校を中退。日本一周徒歩旅行に出たが、実家が火事で全焼したため、神戸で断念。15歳で全日本プロレスの新弟子第一号としてプロレスの門をたたくことになる。

 74年4.14後楽園大会にて、佐藤昭雄戦でデビューを飾る。その後、ジャイアント馬場の付き人を務めつつ、渕正信、薗田一治(ハル薗田)と共に「若手三羽烏」と呼ばれ、海外修行にも出発。82年3月には米国にてチャボ・ゲレロからNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取した。

 ライバル団体・新日本プロレスでは、81年4月に(初代)タイガーマスクがデビューし、絶大な人気を博しており、大仁田も凱旋帰国後はジュニア戦線での活躍を期待される。しかし、83年4月のヘクター・ゲレロ戦の試合後、左膝蓋(しつがい)粉砕骨折の重傷を負い、一時は医師に再起不能の宣告を受けた。それでも、約1年で復帰を決意するが、以前のような輝きは取り戻せず、84年12月に引退を賭けたマイティ井上戦に敗れ、翌年1.3後楽園大会で引退式が行われた。

縫合箇所1000針を突破 2度目の引退

電流爆破を広めたのも大仁田の功績 【写真:SHUHEI YOKOTA】

 一度目の引退後はタレント業や事業家として生計を立てていたがうまくいかず、コーチを務めていたジャパン女子プロレスの団体内でグラン浜田と因縁が生まれたことから、遺恨を決着するために88年12.3ジャパン女子後楽園大会で浜田と対戦。5年ぶりに現役復帰となった。

 その後、自らの団体FMW(フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング)をわずか5万円の元手で設立し、89年10月6日に名古屋市露橋スポーツセンターで旗揚げ戦を行った。翌年、8月4日に東京・汐留で全日本時代の後輩であったターザン後藤とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行ったことで、プロレス界に旋風を巻き起こし、この試合が同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得。

 その後も各地でビッグマッチを開催したが、自らの体を張った試合は肉体をむしばみ続け、94年11月には縫合箇所が1000針を突破し、記念パーティーまで行われた。94年5.5神奈川・川崎球場で行われた天龍源一郎戦で敗れ、引退を決意。その後、1年間に渡って「引退記念ツアー」を開催し、翌95年の5.5川崎球場にて、まな弟子・ハヤブサと2度目の引退試合を行った。

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著者プロフィール

静岡県沼津市出身。埼玉大学教養学部卒業後、新聞社に勤務し、プロレス&格闘技を担当。退社後、フリーライターとなる。スポーツナビではメジャーからインディー、デスマッチからお笑いまで幅広くプロレス団体を取材し、 年間で約100大会を観戦している 。最も深く影響を受けたのは、 1990年代の全日本プロレスの四天王プロレス。

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