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MotoGPの人気を支えるロッシ
6度の王者は唯一無二の存在
MotoGPで唯一無二の存在と言えるロッシ。骨折からの復帰戦となったアラゴンでの記者会見で笑顔を見せた
MotoGPで唯一無二の存在と言えるロッシ。骨折からの復帰戦となったアラゴンでの記者会見で笑顔を見せた【Photo by Dan Istitene/Getty Images】

 近年、アジア地域において、2輪の世界最高峰レースであるMotoGPの人気がF1を大きく上回っている。今季限りでF1開催を返上したマレーシアGP主催者は、以前インタビューしたとき、はっきりと「MotoGPの方がずっと集客数がある」と断言した。


 そんなMotoGPの人気を世界的に支えているのが、1979年2月16日生まれ。現在、38歳にして現役ライダー。しかも、125cc時代から含めると、世界選手権で115勝。ワールドチャンピオンに9回もなっている生きる伝説。それが、ゼッケン番号「46」のバレンティーノ・ロッシ(イタリア)だ。

父から譲り受けた「46」

 2輪の世界では誰もが知るヒーローであり、彼のイメージカラーである黄色は、世界中のどのMotoGP開催地でも熱狂的なファンがいて、それこそ会場中が黄色く染まることもある。印象でいえば、F1におけるフェラーリを応援するフェラーリレッドと同じか、それ以上の熱狂だと思ってもらうといいかも知れない。


 なにしろ、まだ現役だが、引退後のMotoGPの人気減少への懸念が、何年も前からずっと言われている。強いて例えるならば、1994年の年末に653万部を記録した『週刊少年ジャンプ』が、当時の二大看板だった『ドラゴンボール』(95年連載終了)と、『スラムダンク』(96年連載終了)が抜けて、発行部数が落ちていく様子や、モータースポーツの世界においてはフェラーリの黄金期を支えたミハエル・シューマッハが2006年に最初の引退を決めたことで、その後のF1人気が衰退していった出来事が間違いなく再来するだろうと、多くの関係者が口をそろえる。


 スポーツの世界では多くの人が知っているであろう、サッカーのリオネル・メッシ(FCバルセロナ)やクリスティアーノ・ロナウド(レアル・マドリッド)がこの先引退するよりも、モータースポーツ界においてはその影響は大きい。サッカーのビッグクラブの選手数と、MotoGPに出場できるライダーの数ではまったく比較にならないからだ。17年のMotoGPクラスに出場したのは、第14戦のMotoGPアラゴンまでにたったの27名。MotoGPの初開催である02年から、現在にいたるまでトップライダーのひとりとして君臨し、6度MotoGP王者になっている。もはや「MotoGP=ロッシ」と言えるレベルにあるライダーであり、唯一無二の存在なのだ。


 最近はF1でもゼッケン番号を自分で選択するようになったが、2輪の世界ではずっと以前からマイナンバーが定着している。年間チャンピオンになると、ゼッケン番号「1」をつける権利が生まれるのだが、ロッシはチャンピオンを獲得しても「46」をつけ続けている。


 この「46」という番号は、ロッシの父親であるグラツィアーノ・ロッシがスズキとモルビデリのバイクを駆ってGP500とGP250で活躍していた頃につけていたもの。親子二代に渡って、「46」を使用している。じつはMotoGPの世界にも、プロ野球のような“永久欠番制度”があり、現在のMotoGPではケビン・シュワンツが付けていた「34」が永久欠番となっている。そして、もしこの先にロッシが引退した場合、間違いなく「46」も永久欠番になるだろうと言われている。

憧れのヒーローはノリック

 さて、そんなロッシが育ったのは、イタリア・マルケ州のタヴッリアという小さな街。4歳の頃にはポケバイだけでなく4輪のカートレースにも乗っていて、幼少期はカートレースの方に集中していたと言う。またフィギュアを集めるのが好きで、日本発祥ではないが「ニンジャタートルズ」も大好きだった。そして、彼がライダーとして世界を目指していた頃、もっとも憧れたヒーローは日本人ライダーの“ノリック”こと阿部典史だ。


 1994年のGP500日本において、ワイルドカードで出場したノリックが当時のトップライダーであった、ケビン・シュワンツやミック・ドゥーハンと激しく競い、19周目の1コーナーで激しくクラッシュしてしまうまでの映像に魅せられた。2007年のMotoGPオーストラリアで、その数日前に交通事故で亡くなったノリック(07年10月7日に死亡)について聞かれたロッシは、こう語っている。


「コリン・マクレー(07年9月15日にヘリコプターの墜落事故で死亡)とノリック、僕にとって2人のアイドルがほんの数週間の間に亡くなった。僕がまだ若かった頃、部屋にはマクレーとノリックのポスターを何枚も飾っていた。本当にショックなニュースだ。僕にとって1994年のノリックがデビューしたGP500日本でのレースは忘れられないものだ。ノリックは、ケビンとミックと鈴鹿サーキットのあらゆるところでバトルして、抜いて抜かれてを繰り返していた。僕がよく覚えているのは、あのレース後の2〜3カ月は、学校に行くまえに必ずあのレースのビデオを見ていたこと。ノリックが転倒する19週目までを見て、学校に行っていたんだ。僕にとって彼のライディングスタイルは変わっていて、信じられないものだった。だからすごく影響を受けたんだ」、と。


 世界一のライダーが唯一ファンになったのが、ひとりの日本人ライダーであった。


 ロッシはノリックに大きく影響を受け、125ccで世界選手権デビューした頃は、“ROSSIFUMI”のロゴがトレードマークであり、ニックネームだった。ノリックの事故死後、「ろっしふみ がんばって」という日本語のステッカーも使ったことがある。


 これは蛇足だが、05年に日本の企画でロッシとノリックの対談があった。ノリックが04年のマレーシアでのテストで同じヤマハクルーとなり、いきなりロッシがヤマハのトップタイムをたたき出したとき、「キミは本当に別格だった」とノリックがその印象を語るとロッシは本当に嬉しそうで、憧れの人物に褒められて照れる姿は、間違いなく125cc時代の少年の顔だった。

田口浩次

スポナビDo

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