MotoGPの人気を支えるロッシ 6度の王者は唯一無二の存在
フィギュアを愛するピュアな一面も
ケガからの復帰戦となったアラゴンでトップ争いを繰り広げたロッシ 【Photo by Mirco Lazzari gp/Getty Images】
ロッシの腰の辺りには“THE DOCTOR”という文字が見える。GP500を制覇した後から、彼のニックネームは“ROSSIFUMI”から“THE DOCTOR”になっていく。これについて父親のグラツィアーノはインタビューで、「イタリアではドクターというのは、尊敬や敬愛される存在につけられる意味合いがあるんだ」と説明した。ただし、ロッシ自身は冗談で、「たまたまロッシという姓には医者が多いからつけたんだ」と語っている。
じつはロッシはF1挑戦の可能性もあった。F1の初テストは04年だったが、当時からM.シューマッハの1秒落ちというタイムをたたき出し、関係者を驚かせた。そして、06年にM.シューマッハがF1から最初の引退を決めたことで、ロッシをフェラーリに乗せるという話がかなり現実味を帯びたことは事実だ。当時のロッシは、かなりF1への転向も視野に入れた発言を繰り返していた。ただ、それは現実とならず、結果MotoGPは現在に続く人気を勝ち取ったと言える。
ロッシは幼少期から日本の文化やライダーに影響を受けたことは知られているが、まだ250ccで戦っていた頃のちょっと面白いエピソードを、当時のチームメートで93年の250cc世界王者となった原田哲也から聞いた。その頃のロッシはまだ子供な雰囲気で、ニンジャタートルズのフィギュアをすごく大事にしていて、休憩場所にはフィギュアを飾っておくスペースがあった。そして、そのフィギュアが倒れていたりすると、すごく几帳面に直していたのだと。あるとき、原田のスタッフがイタズラで、ロッシの走行中にフィギュアを倒し、ロッシが戻るたびに倒れているフィギュアを、イタズラとは思わず、「なんでだろう?」と首をかしげながら何度も丁寧に直す姿は可愛かった、とのことだった。あのニンジャタートルズのフィギュアは、当時のロッシにとって、ある種のお守りみたいなものだったのだろう。
そんなピュアな一面も含め、陽気で、バイクを愛し、世界中のファンを魅了する。それも当然のことだろうと感じる。
自らの力を見せつけたヤマハへの移籍
当時のホンダにおいて、ライダーはバイクより軽視されていた。ホンダの看板の方が重要視されていたことで、ライダーとして楽しめなかったことが、最強ホンダを離れることを決めた要因だった。そして、劣っているバイクで勝利をすることこそが、ロッシにとっての大きなモチベーションとなった。
ホンダとの契約にも縛られ、ロッシがテストに参加できたのは、04年の1月にマレーシアで行われたテストから。開発にも遅れて参加し、さまざまな苦労とハンディキャップを乗り越え、開幕戦のMotoGP南アフリカで、ホンダに乗った最強のライバルであるマックス・ビアッジに競り勝って勝利をものにした。このまま04年は03年と同じく9勝を挙げ世界王者を獲得する。まさに、バイクのおかげではなく、ロッシの力こそが勝利のスパイスであることを世界に証明したわけである。
この勝利はロッシにとっても特別なもので、後のインタビューで自身のベッドルームには04年の開幕戦で勝利したYZR−M1のバイクを飾っていることを明かしている。
その後、ヤマハを一度離れて、11年と12年はドゥカティに在籍したが、13年に再びヤマハへ戻り現在に至っている。ヤマハに復帰してからはシーズン4位、2位、2位、2位と、いまだトップライダーであり、今季は転倒やけがなどの影響で現在5位だが、来季もチャンピオン候補のひとりであることは間違いない。
当然、日本にも多くのファンがいて、東京の原宿(正確には神宮前三丁目交差点の近く)にはロッシの公式ストアもあるほどなのだが、じつはMotoGP日本開催を前に、日本のロッシファンには大きな心配事があった。8月末にトレーニングのモトクロス中に右足などを骨折してしまったのだ。これによって7度目の年間チャンピオンへの可能性をほぼ失ってしまったのと同時に、重症ならばMotoGP日本を欠場するのではないかと心配していたのだ。しかし、母国開催の第13戦MotoGPサンマリノは欠場したが、第14戦のMotoGPアラゴンに復帰出場。これでMotoGP日本の出場も問題がないと、ファンは胸をなでおろした。
日本とのつながりも多く、世界最高のライダーであるバレンティーノ・ロッシ。MotoGPを見たことがない人も、これを機会にこんな有名ライダーがいて、世界を熱狂させるモータースポーツカテゴリーがあることをぜひとも知ってもらいたい。