伊達公子、現役生活2度目の幕引きへ 充実の9年半で「やめたくない」思いも

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思い出深い試合はグラフ戦

ファーストキャリアの思い出の1つは、96年4月のフェド杯。当時世界NO.1だったグラフ(右)を破る大金星を挙げた 【写真:アフロ】

――最後の大会の試合も残ってはいますが、思い出の試合も聞かせてください。ファーストキャリア、最初の引退をする前の1990年代であえて思い出深い試合を1つ上げると?

 90年代のファーストキャリアで思い出深い試合となるとやはり、私にとってはこの有明コロシアムで、ツアー公式戦ではないですけれど(96年4月の)フェド杯で(ドイツのシュテフィ・)グラフと長時間にわたり戦って勝利した、当時の(世界)ナンバーワンのグラフに勝った試合は忘れられない試合でしたね。当時立ち見のお客さん、入れなかったお客さんも最後にはこの会場に足を運んでいただいて。その時私は足をけがしていて歩くことすらできない状況の中で戦って、日本がドイツに勝ったということ、ナンバーワンだったグラフに私が初めて勝てたということが、その試合がやはり一番思い出深いです。
 あと、やはり忘れられないのは(同年、グラフと対戦した)ウィンブルドンのセミファイナル、日没サスペンデッド。今であれば(ウィンブルドンにも)有明と同じ開閉式の屋根があるのですが、90年代には開閉式の屋根はなかったので日没サスペンデッドで2日間にわたって戦った試合。その2つですね、やはり思い出深いのは。

――グラフさんはやはり思い出深い、非常に刺激を受けた選手ですか?

 グラフは私にとっては、うーん……憧れというか、当時は本当にダントツの強さでしたので、憧れとは呼べないくらいの存在感と強さを持ち合わせた、真のアスリートだったのではと。ナンバーワンであるべきプレーヤーで、目標とか憧れとか、そういうことを呼びたくても呼べないくらいの格別な存在でしたね。

2度目の選手生活は「本当にツアーが楽しくて」

復帰後で印象深い思い出は、2011年ウィンブルドンで戦ったビーナスとの一戦だと話す 【写真:ロイター/アフロ】

――2008年に復帰してからのセカンドキャリアで思い出深い試合は?

 本当にたくさん……ひょっとしたらファーストキャリアよりもすべてが、一つ一つが私にとってはチャレンジの連続だったので(思い出深い試合は)たくさんあります。

 時系列で思い出せば、元々、私が再チャレンジを始めた時は世界レベルで戦うことを目標に再チャレンジを始めたわけではなくて、全日本選手権を目標にスタートを切りました。その準備としてITFの大会に出るようになったことで世界ランキング(のポイント)が付いてきて、気がつけばグランドスラム予選に挑戦できる位置まで来ていました。初めて挑戦した再チャレンジの後の全豪で予選をクリアして本戦に出場することもできて。その試合も私の中ではすごく思い出に残っていますけれど、強いて挙げるのであれば(2011年)ウィンブルドンのビーナス(・ウィリアムズ/米国)戦が、勝負には負けてしまったのですが、展開の速いテニス、ネットプレーというものをミックスすることで、今のパワーテニス、スピードテニスに対抗できるテニスができたことが一つ。また、その日は雨が降っていてルーフを閉めて試合をしていたのですが、日没サスペンデッドで2日にわたってプレーした私が、時代を超えて屋根が閉まったウィンブルドンのルーフの中でプレーできたということも非常に思い出深くなっています。

 試合の後に、雨だったのでプレーヤーズラウンジやロッカールームで多くの選手や、私とさほど年齢の変わらないコーチ陣とかスタッフといった、そういった方々が私の試合を見て、普段であればライバル同士の選手ですらも、試合後は本当にたくさんの人が声を掛けてくれて「素晴らしい試合だった」「本当にリスペクトする」と、そういった言葉をいただいたこともあったので、本当に私にとっては忘れられない試合の一つになっています。

――復帰して9年半がたちました。数々の最年長記録、プレーヤーとしての記録を塗り替えてきましたが、何がそこまで伊達選手を成長させる原動力になったのですか?

 今だからこそ言えるのは、やっぱり私はテニスが好きでスポーツが好き。そこに尽きるのかなと思います。90年代は当時で言うと本当に海外でプレーするアスリートは今とは全然違って、数が少なく、環境も大きく違いましたし、それをすべて受け入れて戦えるだけの精神力、器も自分自身にはなかったんじゃないかなと思います。当時で言えばメジャーリーグにいた野茂(英雄)さん、ゴルフの岡本綾子さん、そのくらいしか海外で戦う人がいなくて、米国のツアーに行くと「ノモは知っているか?」と言われることも多かったです。

 そしてメディアからの対応を自分なりにうまくこなすだけの器もなく、自分自身の中にも「こうでなきゃいけない」「こうであるべきだ」という強いこだわりも持っていました。(その一方で)それと向き合うことにも、そして勝ち続けなきゃいけない、勝ちたいという思いから勝ち続けなきゃいけないということに耐えられるだけの精神力も(なかった)。90年代は常にいっぱいいっぱいの中で戦っていて、それに疲れ果てていた部分が多かったです。

 再チャレンジを始めてからは本当にツアーが楽しくて。勝つことが目的ではなかったので、その一つ一つの、日々起きることに対するチャレンジが本当に楽しくて、必ずしも結果としてつながることだけが自分の達成感ではなかった。それでもやれるというのはテニスが、37歳で再チャレンジを始めてから初めて感じられたことで、その思いがすごく大きくなっていったからこそ、9年半も続けられたのかなと思います。

――復帰会見で「これからは世界と戦うのではなく、戦う姿をもって若い選手に刺激を与えたい」と話していました。それはこの9年半、常に思っていたことなのですか?

 1年目は本当にコートに立って若い選手たちに伝えられることがあるという思いで立っていたのですが、2年目、3年目になってくると戦う場がWTAになって、同じ日本人と同じコートに立てる数が、本当にトップ100にいる数、限られた選手だけになってしまったことと、その中で自分のもともと再チャレンジを始めた時の思いとは変わって、自分自身のチャレンジというものに大きく変わっていったので、後半は自分自身のチャレンジになっていきました。自分の年齢で今の中でできることに対するチャレンジで、当然フィジカル的なこと、時代で変わっていくテニスにどう対応していくのかを追求していくことが中心になっていったのではないかと。その自分がチャレンジしていることに対して若い選手たちがどう見てくれたかということは私には計り知れない部分ではあるのですが、何かしらみんなに影響を与えていればいいなという思いは持って過ごしています。

――若い選手たちが伊達選手の最後の試合となる今大会を注視していると思います。コンディションも含めて今大会への意気込み、最後のゴールに向かっての今の状況を教えてください。

 会場入りしたのは今日が最初です。今日は外のコートで練習している途中に雨が降ったので、コロシアムに移って少し練習させていただきました。(大会ではコロシアムは使わないため)もうコロシアムのコートに立てないと思っていたのですが、雨が降ったことによって今日コロシアムに立って、やっぱり気持ちいいなと強く思っていました。

 実際、今の状態というのは……どうですかね、何を持って良いと言えばいいのか、悪いと言えばいいのか、表現が難しいのですが。問題は、今は膝よりも肩なのか……膝はまぁ、停滞気味ですね。すごく良くなることも、やっぱりもうないのかなと思うこともあったので引退を考えたのも当然ありますし。ただ、ゲーム練習をするとどうしてもなかなか動きが良いとは言い切れない部分もありますし、痛みということで言うとまだやっぱり肩の方が大きいですし。

 この8月に米国から帰ってきた時は本当に痛みがひどくて、日常生活でも支障が出るくらいのレベルから、この有明の大会にギリギリ間に合うかな、間に合わないかなというところまで、私自身とドクターもトレーナーもマッサージをしてくれる人たちも、皆さん何とか間に合うようにということで、フルサポートで何とかコートに立てるレベルにはきているとは思います。ただ、自分自身が思う本来のプレーと比べて何パーセントのプレーでできるかというと、ふたを開けてみないと分かりません。後はアドレナリンが出て、どこまで痛みを忘れてプレーできるかに懸けるしかないかなと思っています。

 普通の状態でもそういう状態ですが、最後の試合ということでいろいろな思いも出てくると思うので、何か見えない力が最後に働いてくれると信じて当日を迎えたいと思っています。現実的に今、何パーセントというのは試合前なので明言は避けたいと思います(笑)。

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