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“先駆者”クルム伊達が語るプロの矜持
テニス文化をアジアに根付かせるために
“アジア人史上初”の扉を次々とこじ開けた先駆者・クルム伊達が語るプロの矜持とは!?
“アジア人史上初”の扉を次々とこじ開けた先駆者・クルム伊達が語るプロの矜持とは!?【Getty Images】

 8月末から9月上旬にかけて開催され、2週間、ニューヨークを熱く焦がした全米オープン――。その世界最高峰の舞台で、クルム伊達公子(エステティックTBC)はダブルスでベスト4進出の快進撃。シングルスは初戦で敗れたものの、第19シードで元世界1位のビーナス・ウィリアムズ(米国)相手に6−2、3−6、3−6の熱戦を演じ、2万人の観衆を沸かせた。


 1990年代にランキングトップ10入りを果たし、全豪、全仏、そしてウィンブルドンでベスト4入りした小柄なテニスプレーヤーは、“アジア人史上初”の扉を次々とこじ開け、未踏の地を切り開いていったパイオニアでもある。

 そのパイオニアは、全盛期の最中にあった26歳で突如テニス界に背を向けるも、12年後の2008年に、電撃的に現役復帰。今年9月28日に44歳の誕生日を迎える彼女は、今なお第一線で活躍し、テニスの魅力を、そしてアスリートの可能性を世界に示し、人々に衝撃と感動を与えている。


 約25年間にわたり、時に立場を変えながらトップランナーとして走ってき彼女の目には、現在のテニス界の景色は、どのように映っているのだろうか?

 世界中の選手らの敬意を集め、ダブルスパートナーとしても引く手あまたな彼女の魅力、そしてプロの矜持とは、一体どこにあるのだろうか? 


 本人の言葉から、それらをひも解いてみよう。

伝家の宝刀は世界で戦うべく生まれた

 高校時代の伊達公子は、大きなテークバックを取るフォームで、打ち方も今とは全く違った――。


 彼女のプレーを昔から知る指導者や選手らは、一様にそうに証言する。クルム伊達本人も「そうです、昔とは打ち方が変わりました」と、そのことを認めていた。


 ではなぜ、変わったのだろうか? 

「以前はテークバックも大きかったのですが、変わらざるをえなかった。日本にいて高校でやっていたころの打ち方では、世界にプロとして出て行った時に、ボールのスピードについていけなかったんです。ですから自然と、変わっていきました」


 大きなテークバックのフォームでは、速い打球に振り遅れてしまう。さらにはパワーで打ち合っても、体格で勝る相手の球威を上回ることは困難だ。そこで彼女が編み出したのが、可能な限りコンパクトなスイングで相手のボールの跳ね際をたたき、相手のパワーを利用し打ち返すカウンター。つまりは、現在のクルム伊達の代名詞ともなっている“ライジングショット”である。


 そのような打ち方の変化は、プロとして世界に飛び出した18歳のころから徐々に見られたという。

「フォームを見ても、年々コンパクトになっていったのが分かると思います。突然ガラッと変わったわけではなくて、徐々に徐々に。最初はそれほどでもなかったと思いますが、20歳くらいの時には既に『打ち方がコンパクトになったね』と人からも言われました。ですから、ツアーを回って1〜2年で既に、そうならざるを得なかった。そうしないと世界のスピードについていけなかったので、自然と変わったんだと思います」


 体格やパワーで劣る彼女が世界で戦うためには、“工夫”するしかなかったのだ。

さらに加えるなら、インターネットも携帯電話も普及していなかった時代に、極東の島国の選手が、欧米のスポーツであるテニスの世界で戦うことは今よりもはるかに困難であった。アジア人がツアーを転戦することも珍しかった80年代後半から90年代に、163センチのクルム伊達が戦っていたのは、対戦相手だけではなかった……。

アジア人には厳しかったツアーの世界

プロになった当初は疎外感を覚えたというクルム伊達
プロになった当初は疎外感を覚えたというクルム伊達【写真:青木紘二/アフロスポーツ】

「今でこそリー・ナ(中国・最高ランキング2位)や(奈良)くるみちゃん(身長155.5センチ、最高ランキング32位)の成功例がありますが、当時はアジア人が、この体でトップ10に入るのは不可能だと思われていました。また欧米の選手たちには、テニスは自分たちのスポーツであり、アジア人に負けるはずがないというプライドもあったと思います。

 今は随分変わりましたが、私がプロになったころはまだまだ……疎外感と言うか、あまり受け入れられていない感じは、今以上にありました」


 ツアー嫌い……そんなレッテルを貼られた20歳代のクルム伊達ではあるが、その背景には、今とははるかに異なるツアーの“空気”があった。


「最近はツアーには、アジアだけでなく東欧の選手も多いですし、ソビエト連邦が崩壊し複数の国に分裂する中で、いろいろな国や人種の人たちが入ってきたので、みんなにチャンスが広がっていると思います。ですが当時は、やはりテニスは欧米……その中でもイギリスやフランス、米国のスポーツだといういう色が、今よりもっと強かった。ランキング制度にしても、アジア人が上に行くには困難なシステムでした」


 今でこそ中国などアジアにも多くのテニス大会があるが、当時のテニスの開催地は、欧州と米国が圧倒的多数。世界各地を転戦しながらトーナメントに出場する“ツアー”というシステムや、その中でポイントを勝ちとる“ランキング”制度も、地理的にアジア諸国には不利であった。

内田暁

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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