吉田の相棒に躍り出た昌子源 最終予選終盤からみるロシア行きの可能性

元川悦子

W杯最終予選の厳しい環境で昌子がどのようなパフォーマンスを見せるのかは、1つの大きな注目点だった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 気温32℃、湿度80%。夜20時半とは思えない高温多湿の気候に加え、キングアブドゥラー・スポーツシティスタジアムに集結した6万2165人の大観衆のすさまじい熱気。これは日本代表にとって大きな障害となって立ちはだかった。

 9月5日の2018年ロシアワールドカップ(W杯)アジア最終予選・サウジアラビア戦(ジッダ)。6日前のオーストラリア戦(埼玉)で6大会連続となる世界切符を手にしたヴァイッド・ハリルホジッチ監督だったが、ロシアW杯への第一歩はあえて真剣勝負に挑む必要がある。そう考えて、守備陣は6月のイラク戦(テヘラン)から3戦連続同じユニットで戦った。

 国際経験豊かな川島永嗣、吉田麻也ら海外組とは対照的に、背番号3をつける昌子源は中東でのアウェーが2度目。「こういうシリアスな試合を経験することは大きな財産になる」と吉田が話したように、イランの高温・乾燥とは異なる環境下で昌子がどんな一挙手一投足を見せてくれるのか。そこは1つの注目点だった。

サウジアラビア戦での学び

 序盤の日本はオーストラリア戦同様のハイプレスを見せ、インテンシティー(強度)の高いサッカーができていた。だが、過酷な環境と移動を伴う中4日の過密日程が徐々に選手たちの体力を奪い、前半15〜20分ごろには早くも足が止まってくる。相手が支配する時間が増え、日本はズルズルとラインが下がる。右FWの本田圭佑、左FWの原口元気も最終ラインに吸収されて6バックのような形になる時間帯もあった。ビッグチャンスも2度3度と作られたが、昌子は集中力を失わず、冷静な判断とカバーリングで無失点を演出していた。

 しかし後半、サウジアラビアが1トップのモハンメド・アルサハラウィ(10番)を下げ、快速FWのフハド・アルムワラド(19番)を投入。ゼロトップに近い布陣に変更すると、日本守備陣は混乱。後半18分の失点シーンにつながってしまう。これも20本以上パスをつながれ、全体が崩された結果、奪われた得点だった。

 ボランチのアブドゥラー・オタイフ(14番)から中央のナワフ・アルアビド(18番)に縦パスが渡った瞬間、山口蛍と酒井宏樹、昌子の3人がチェックにいったが、寄せがいずれも中途半端な形になり、昌子の背後に飛び出したF・アルムワラドにスルーパスが入る。吉田は決死のスライディングタックルにいったが及ばず、この日好セーブを何度も見せていた川島も止め切れない。このビハインドを最後まで跳ね返すことができず、日本は最終予選2敗目。辛うじてB組1位はキープしたものの、後味の悪い幕切れを余儀なくされた。

「試合後、ヴァイッドと失点シーンの話をしましたけれど、本当(の決定機は)あの1シーンくらいだった。後半は特に僕らが間延びしてしまった。失点シーンもそうですけれど、僕らが押し上げるのか、オカちゃん(岡崎慎司)のあたりが下がるのかがハッキリしていなかった。間が開いていなかったら、あの失点もなかったと思います。前半と後半の最初の10分が理想の形だけれど、この環境ではできない。サウジの湿度は日本に近いと言われていたけれど、日本でやっている僕もこれは難しかったですね。これだけのドアウェーでやることも本当になかった。今までアウェーは広州恒大(中国)が一番すごいと感じていましたが、比にならないくらいの迫力があった。やっぱり体験しないと分からないですよね」(昌子)

 彼にしてみれば悔しい敗戦から得たものは少なくなかったのだ。

日本のCBに必要だった若手の台頭

昌子は森重(左)と入れ替わるように吉田の相棒の座を射止めた 【写真:アフロ】

 6月のシリア・イラク2連戦で森重真人が代表から漏れ、昌子がスタメンに抜てきされるまで、日本のセンターバック(CB)は選手層の薄さが顕著だった。過去を振り返ってみても、10年南アフリカW杯の16強は中澤佑二と田中マルクス闘莉王が鉄板コンビを形成。彼らがけがも警告もなく戦い抜いたからこそ守りが安定していた。

 直後のアルベルト・ザッケローニ監督体制では今野泰幸・吉田コンビへ移行。吉田は「ちょうど入れ替わる時で、競争をせずにチャンスをもらったのですごくラッキーだった」と述懐(じゅっかい)するが、ザック監督は若い彼を腰を据えて育てていく覚悟をしたのだろう。その後、森重が加わって14年ブラジル大会のCBは彼ら3枚が軸となり、ハビエル・アギーレ、ハリルホジッチという2人の後任指揮官もその流れを踏襲する形となった。

 とはいえ、ブラジルで20代半ばだった吉田も森重も30歳前後。どこかで若手の投入は必要不可欠だった。そこで白羽の矢が立ったのが昌子。21歳だった14年10月のジャマイカ(新潟)・ブラジル(シンガポール)2連戦で初招集され、15年3月のウズベキスタン戦(東京)で初キャップを飾って以来、なかなか代表定着はかなわなかった。しかし、16年のJリーグ制覇、FIFAクラブW杯で一気に台頭。大いに自信を深めると同時に、武器である読みとカバーリングに磨きをかけた。この成長をボスニア人指揮官に評価され、調子を落としけがにも見舞われた森重と入れ替わるように吉田の相棒の座を射止めたのである。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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