連載:東京五輪世代、過去と今と可能性

“欧州仕様”の守備を意識する冨安健洋 東京五輪世代、過去と今と可能性(3)

川端暁彦

CBやボランチをこなすオールラウンダー、冨安健洋に目前に迫ったU−20W杯、そして東京五輪について話を聞いた 【写真:川端暁彦】

「U-23」という独特のカテゴリーで行われる五輪の男子サッカー競技。2020年の東京五輪まであと3年と迫った今年、選手たちはU−20ワールドカップ(W杯)という初めての大舞台を迎える。この連載では、そんな「2020年」のターゲットエージに当たる選手たちにフォーカス。彼らの「これまで」と「未来」の双方を掘り下げていく。

 第3回に登場するのは、アビスパ福岡の星・冨安健洋。今年3月に高校を卒業したばかりながら、188センチで78キロという体躯(く)を誇る偉丈夫である。「気は優しくて力持ち」と言うべきか、いつも朗らかで柔らかい雰囲気を漂わせる博多の男に、過去を振り返る昔話、目前に迫ったU−20W杯、そして東京五輪について話を聞いた。

中学時代のチームは“最強世代”と言われていた!?

当時は高校生ながら、トップチームでのプレーを経験。中学時代のチームは“最強世代”だったそう 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

――すごく月並みな質問ですが、サッカーを始めた理由は?

 姉2人が水泳をやっていて、自分も水泳を習いにいく予定だったんです。ところが、おばあちゃん家のランニングマシーンで遊んでいたら、コケて顎を縫うことになり、「縫っているから水泳はしばらく無理だね」ということになりました。ちょうど、そのタイミングで幼稚園でサッカーの体験教室があって、行ってみたら楽しかったので。それでボールを蹴り始めました。

――偶然の出会いですね。

 たまたま始めました(笑)。幼稚園のころはコスモサッカークラブというところでプレーして、小学校に上がってからは地元の三筑キッカーズに入りました。

――選んだ理由は家から近かったとか?

 そうです(笑)。当時はプロを目指そうと思ってやっていたわけではなく、三筑キッカーズも公民館を拠点にしている地元の普通のチームでした。いわゆるクラブチームという感じのところではありません。ただ、僕の代はメンバーに結構いい選手がいたので、福岡市で2位になったり、県大会にも行きました。

――FCバルセロナのスクール(バルセロナスクール福岡校)にも行くようになったそうですが?

 それも三筑キッカーズのコーチが「行ってみたら?」と言ってくれたので、とりあえず行ってみたという感じでしたね。集まっている選手はみんなうまかったですけれど、「ついていけない」と思うことはなかったです。

――小学生のときから地元では有名人?

 トレセン(地域の選抜研修会)では一応(九州最上位の)スーパートレセンまでいきましたが、それもギリギリだったと思います。選抜合宿の最後のほうでAに上がって、そのまま(スーパートレセンに)入ったという感じでした。正直、滑り込みです(笑)。そのときのメンバーがみんなアビスパに行くと言っていたので、集まってやれたら楽しいだろうし、強いだろうなと思ってアビスパ(のU−15チーム)へ入りました。

――実際、冨安世代のアビスパは強かったですよね。

 中学のときは“最強世代”と言われていました(笑)。あのころは本当に楽しかったです。どこと試合をしても「やれる」と思っていました。でも夏(クラブユース選手権)はベスト8で負けてしまい、高円宮杯も結局全国には出られずに終わってしまいました。

――高校では一足先にU−18チームを“卒業”して、最終学年からトップチームでのプレーに専心しました。

 最初は(U−18のときのチームメートと)一緒にプレーしたいという気持ちもありましたが、途中からそんな甘い気持ちはなくなっていきました。でも、みんなが最後に高円宮杯プレミアリーグ(高校年代の最高峰リーグ)への昇格を決めたときは、本当にうれしかったです。ずっと携帯電話で速報をチェックして、終わった瞬間「ヨシッ!」って。U−19日本代表でアジアを制覇したときよりも、うれしかったくらいです(笑)。

CBからボランチまでこなすオールラウンダー

J1でのプレー経験から、U−19選手権では「試合慣れしていたし、落ち着いてやれた」と冨安 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 このインタビューで冨安が一番の笑顔を見せてくれたのは、中学・高校を一緒に過ごした「最高の仲間たち」の話をしていたときで、彼の人柄がよく分かるというもの。一方、サッカーに関してはかなりオールラウンドな選手である。センターバック(CB)を本職としつつ、中盤中央でも非凡なプレーを見せる器用さがある。ボランチとしてのプレー感覚は後方でプレーしているときにも発揮されるものだ。

――中学年代では、今と違ってもっと“うまい系”のボランチでしたよね。

 小学校のころからボランチを主にやっていました。中学に入ってからはパスをさばくプレーが好きでしたし、相手が来ていてもパッと前を向いて持ち出すようなこともやっていたと思います。今はもうできませんが(笑)。

――DFになったのは、どういう流れだったんですか?

 中学1年生のときにアビスパに入って、初めての試合でCBだったんです。たぶん身長が高かったからだと思いますが、サイドバックもやっていました。そのあとボランチになって、あとは世代が上がるにつれて、後ろで使われることが増えていきました。ポジションは別に関係ない、気にしないと思っているので、抵抗はありませんでした。

――中3のときに早くもトップチームのキャンプに混ざっていますが、「いつも隅っこにいて、かわいらしい感じだった」と聞きました(笑)。

 基本的に人見知りなんです。ましてや、ずっと憧れていたプロサッカー選手たちが周りにいるわけで、ちょっとおとなしくなっていました(笑)。でもやっぱり、プロと早くからやれるのはユースの特権だと思いましたね。刺激にもなりますし、「早くここでやりたい」という気持ちにもなるので、よかったと思います。

――昨季J1での戦いに慣れたことで、今季のJ2では余裕を持ってプレーできているのでは?

 それは何試合かやった段階から感じています。「(J1とJ2は)やっぱり違うんや」と思うし、確かに昨季より余裕は持てていると思います。

――AFC・U−19選手権も、J1で普段やっていたからこそのプレーだったと思います。

 それは大きかったと思います。試合慣れしていたし、冷静に落ち着いてやれていました。J1にはもっとすごいFWもいると思えたし、福岡にも(J屈指の大型FWである)ウェリントンがいますからね(笑)。ウェリントンが体を張るほうがずっと強かった。「普段からウェリントンと競っているんだから、空中戦で負けるわけにはいかない」という感覚でした。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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