かつての個性派FWは人を切れない監督に 藤枝明誠が選手権で目指す超攻撃サッカー

中田徹

「優勝藤枝明誠」から取った子供の名前

第88回全国高校サッカー選手権に初出場した藤枝明誠(白)は準々決勝まで勝ち進んだ(写真は1回戦のもの) 【写真は共同】

 藤枝明誠を全国に、田村和彦監督を全国に――。そういう思いで藤枝明誠のコーチを務めてきた松本にとって09年12月、決勝戦で清水商業を破って第88回全国高校サッカー選手権の出場権を獲得したことは、とてもうれしかった。松本の2人の子供の名前は、県予選で優勝した翌日の新聞の見出し「優勝藤枝明誠」から取っている。

「長男が優誠(ゆうせい)。次男は優明(ゆめ)にしようと思ったんですけれど、画数が多いから“日”を取って優月(ゆづき)にしたんです」

 そんな松本に4年前、大学やJリーグのクラブから誘いの声がかかった。本人は藤枝明誠を辞めることを決意し、妻も賛成してくれた。すると仲田理事長と当時の田村監督から「明誠に残れ。辞めたら、お前が今まで面倒を見てきたOBはどうするんだ?」と説得された。この言葉に松本は「うーん」とうなって悩んだ。

「だって、彼ら選手たちが藤枝明誠を選んでくれたから、僕たち指導者はコーチができるんですよ。自分は“指導者としての実績”があるわけじゃないけれど、選手たちのおかげで“指導者としての経験値”が増えたわけですよね。それは感謝しないといけない。僕は彼らを裏切ることはできない」

 さらに仲田理事長は「藤枝明誠を辞めたら、子どもたちの名前を変えるんだな」とまで言って強く慰留した。

「子どもの名前は変えられないじゃん(苦笑)。あと田村さんも妻に会いにいってくれた。妻はそれまで『行け、行け』って言ってたのに『高校サッカーっていいよ』と手のひらを返しちゃった。あと妻にも『うちの子どもの名前、変えるの、変えないの?』って言われちゃったよ」

「優勝は狙いませんけれど、明誠のサッカーを」

 藤枝明誠に残ることを決心した松本は、2年前から監督を務めている。

「僕が明誠からいなくなる時は、高校サッカーからいなくなるときです。僕は他の高校を指導することはありません。仲田理事長、田村さんを裏切ることはできない。OBにも申し訳ない」

 19年間かけて藤枝明誠のサッカーを作ってきた田村監督の、次の監督は大変だ――。そう言われていた中での就任だった。

「過労で倒れたよ。意識がなくなって2回倒れた。そんなものだよ。明誠はいいところだね」

 意識がなくなるまで打ち込めるのだから、本当に松本にとって藤枝明誠はいい学校なのだろう。

「俺のキャパシティーがなかった。若い指導者を育成するし、彼らに対する責任もある。家庭を持っているやつもいるし、ちゃんと生活できるように持っていかないといけないし、切ることもできない。

 僕は人を切るということが好きじゃない。これは僕の性格が邪魔しているね。それは、僕が育った環境から来ています。僕には両親がいないものですから、小学校2年生から養護施設で育ちました。僕は養護施設から四日市中央工業に行っているんです。いろんな人が助けてくれたから、今の俺があるんですよ。だから、人を切ることが俺にはできない……」

 選手交代にも躊躇(ちゅうちょ)が生まれるのは、その性格ゆえかもしれない。高校サッカー界の名将と呼ばれる指導者からも「松本くん、それじゃ勝負に勝てないよ。決断しなきゃ」と言われるが、やはり選手を代えるのは少し悩む。

「自分は勝負師じゃありません。でも勝負します」

 では、選手権では優勝を狙うのだろうか?

「優勝は狙いませんけれど、明誠のサッカーをやりたいです」

 松本が思う「明誠のサッカー」とは?

「超攻撃的。守備的にはやらないです」

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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