喜びを抑えられなかったのだろう。フィニッシュライン手前で右手を突き出し、胸をたたいた。まるで「王者は俺だ」と言わんばかりに。安堵（あんど）の混じった笑みを浮かべながらウィニングランをするウサイン・ボルト（ジャマイカ）に満員の観客が大きな拍手を送る。ボルトはゆっくりと時間をかけて、３連覇の余韻に浸った。

　９秒８１。

　北京、ロンドンと比較して最も遅い優勝記録になったが、五輪で記録は関係ない。一番最初にフィニッシュすること、それが重要だ。

「とても価値のある勝利だ。この日のために今まですべてをささげてきた。自分自身を誇りに思う」

　あっさりと勝利を収めたようにも見えるが、北京五輪から８年。苦しみ、痛み、そして喜びを伴った８年間、ボルトは一度も止まることなく走り続けた。「伝説になりたい。そのためには勝ち続けないと」といつも口にしていたが、その目標に向かっていつも全力だったわけではない。

　また脊柱側弯症（そくわんしょう）の影響でつねにケガと隣り合わせの競技人生でもあった。

　２０１１年テグ世界選手権のシーズンはケガで出遅れ、不安を抱えて韓国入り。その不安は１００メートル決勝でのフライングという最悪の形で現れた。

　ロンドン五輪の年も同様だった。テグでのフライングが若干トラウマのように残っていたのか、ジャマイカ選手権ではスタートで大きく出遅れ、後輩のヨハン・ブレークに後塵を拝した。ゴール後にグラウンドに倒れ込み、トレーナーにケアしてもらう姿は痛々しかった。ボルトの雄姿を見に集まった観客の中には、弱いボルトの姿に涙を浮かべる人もいた。

　ロンドン五輪からリオまでは道のりはさらに厳しくなった。五輪で連覇を果たしたことでやる気や目的を見いだせなかった。１３年モスクワ世界選手権で３冠をとったあとは「もう疲れた。休みたい」と本音を吐露する場面もあった。

　いつの頃からか、誰かに追いかけられる夢を見始めた。「でも最後まで捕まらなかったから正夢だよね」と笑いながら話すが、オフでも心が休まることはなかったのだろう。

　今年６月のジャマイカ選手権では１００メートル準決勝後に左大たい部を痛め、決勝と２００メートルを欠場。ジャマイカ陸上競技連盟（陸連）の定める救済措置で代表入りしたが、ケガによる練習不足が懸念されていた。陸連から追試として課された７月下旬のダイヤモンドリーグ・ロンドン大会の２００メートルは１９秒８９で勝利を収めたが、後半は練習不足の影響か伸びに欠けた。

「ジャマイカ選手権の後にスタート練習は１回しかしていない」と話すように、万全の状態ではなかった。

　しかし故障を抱えていたのはライバル選手も同様だ。１００メートル２位のジャスティン・ガトリン（米国）は春先に足首を痛めた影響で昨季に比べると、２次加速からの力強さに欠ける走りが多かった。全米選考会で優勝したものの、昨年のような力強さやキレは影を潜めた。１５年の北京世界選手権で１００メートル３位のトレイボン・ブロメル（米国）は、ボルトと同様に脊柱側彎症を抱えており、その影響もあって２月にアキレスけんを痛めていた。強硬出場した世界室内陸上（米国・ポートランド）の６０メートルで金メダルを獲得したが、その後にアキレスけんはさらに悪化。今大会でも「決勝は棄権しようかと思ったけれど、五輪は特別な場所だし、応援してくれる人たちや地元の子供達のために奮起した」と戦える状態ではなかったことを明かした。

「準決勝で良い走りができたので、金メダルを確信した」

　決勝のレースでボルトのライバルは他の選手ではなく、自分自身だった。どこまで自分を信じて走れるか、迷わずにフィニッシュに駆け込めるか。

「自分を疑ったら、それで終わりだ」

　勝つのは自分だ、そう信じてスタートラインに立ったボルトに敵う相手はいなかった。スタートでガトリンに出られたが、ボルトは焦ることなく一歩ずつ歩を進め、５０メートル過ぎには先行するガトリンに並んだ。

「５０メートルで勝ったと思った」

　勝利を手中に収め、リラックスしたボルトはますます力強さを増し、そのまま歓喜のゴールに駆け込んだ。

　今大会の最大の難関の１００メートルを制したボルトは饒舌（じょうぜつ）だった。

「２００メートルでは世界新を狙いたい。準決勝の後にゆっくり休めれば狙えると思う」

　ボルト伝説は最終章に入った。２００メートルでさらなるストーリーが紡がれるのか。どんな展開になるのか、楽しみに待ちたいと思う。