五輪5連覇から低迷、そして復活へ 団体戦に見る「体操ニッポン」の歴史

小川勝
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体操王国・ニッポンの誕生

1976年モントリオール五輪の表彰式。ローマ五輪から実に16年もの間世界一の座を守り続けた 【写真:アフロ】

 五輪の体操競技に日本が初めて参加したのは1932年のロサンゼルス五輪だったが、団体戦は5カ国参加中の5位だった。第2次世界大戦をはさんで、戦後は1952年のヘルシンキ五輪(5位)から五輪に復帰、1956年のメルボルン五輪で銀メダルを獲得する。団体戦における日本の栄光の歴史は、このあたりから始まったと言えるだろう。

 そして1960年のローマ五輪で団体戦、初の金メダルを獲得した。のちに五輪メダルを通算13個獲得、日本選手として史上最多のメダル獲得選手となる小野喬を中心とした6選手で、王者・ソ連の3連覇を阻む形で優勝。個人総合で小野が銀メダル、鶴見修治が4位、遠藤幸雄と竹本正男が5位と、オールラウンダーのそろったチームで圧勝した。ここから、五輪史上に残る日本の団体戦5連覇が始まったのである。1960年ローマ五輪から1976年モントリオール五輪まで、5連覇を達成する間、銀メダルはすべてソ連だった。この時代、日本とソ連は、まさに世界体操界の2強を構成していたのである。

 5連覇の間、中でもずば抜けた強さを見せたのは1972年のミュンヘン五輪だった。メンバーは、この大会で個人総合五輪2連覇を達成した加藤沢男、「月面宙返り」を開発した塚原光男、1970年世界選手権で個人総合金メダルの監物永三、1968年メキシコシティー五輪で種目別、つり輪、平行棒、鉄棒と3種目で金メダルを獲得したベテランの中山彰規、跳馬の「カサマツ跳び」を開発した笠松茂、そして岡村輝一。五輪での活躍や、新しい技の開発で、文字通り世界の体操の歴史に名を残した名選手をずらりとそろえたチームで、ソ連に対して、5連覇の中では最大の点差となる7.20の大差をつけて優勝している。なにしろこの大会では、個人総合でも加藤金メダル、監物銀メダル、中山銅メダルと日本の3人が表彰台を独占した。当時を回想して監物は「団体戦は心配していなかった」と語ったほど、団体戦は金メダルで当たり前のずば抜けたチームだった。
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著者プロフィール

1959年、東京生まれ。青山学院大学理工学部卒。82年、スポーツニッポン新聞社に入社。アマ野球、プロ野球、北米4大スポーツ、長野五輪などを担当。01年5月に独立してスポーツライターに。著書に「幻の東京カッブス」(毎日新聞社)、「イチローは『天才』ではない」(角川書店)、「10秒の壁」(集英社)など。

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