初体験の春、松山弘平初JRA・GI 「競馬巴投げ!第118回」1万円馬券勝負

乗峯栄一

ハハハ。いけるじゃないか

[写真4]短距離王者の風格ミッキーアイル 【写真:乗峯栄一】

「ちょっと寄って行こうか?」

「何?」

「ぼくの下宿。ここからすぐだから」何気ない口調だ。よし。口元にほほ笑み。そう、ほほ笑み、ほほ笑み。よし。いいよ。さわやか。いいよ。

「……いいけど」

 ハハハ。いけるじゃないか。

 サンシャインビルの横から春日通りをぬけ、空蝉橋を渡ってアパートを目指す。ときどき横を見ると、話し続ける女がいて、この女の下を見ると、コートの下から足が出ていて、当たり前だ。当たり前だけど。あっ、また、頭の中を“蠢めく腟”の真っ赤な幟(のぼり)を立てた小人が走り抜ける。生唾が大きな音を立てて喉に入り込んでくる。

「ハハハ」ぼくは相変わらずさわやかに笑う。下宿に来るっていったって、それは友達としてなんだから、友達がお互いの部屋を行き来するのは自然なことなので、「ハハハ」何をそんな大袈裟な。「ハハハ」

 ぼくの部屋はコンクリート通路の続きの靴脱ぎ場が半畳ほどあって、そこから三〇センチぐらい高くなって六畳(正確には五畳半)のたたみの間になっている。彼女はその段差の付いたたたみの端に腰掛ける。

「汚くしてるけど、まあ上がって」先に立って部屋の中央まで来て、コタツのまわりに座布団を敷く。彼女は、体は横向きのまま、首だけ回して部屋を眺めている。

「さあ、どうぞ」席の割り振りをしようとしていたが、中腰のまま所在がない。

「ううん、ここで結構」

「結構って……」

「へえー、こういうものなのね、男の人の部屋って……」

 いや、男の人の部屋はいいんだけど。

「そこじゃ、なんだから、とにかく上がって」と言いながら、座っている彼女の上から開いたままの引き戸を閉めようとした。あとから入ってきた彼女が当然閉めるだろうと思っていたが、その気配がなかったからだ。

そう、これは家庭訪問の図だ

[写真5]桜花賞馬レッツゴードンキは牡馬相手でも侮れない 【写真:乗峯栄一】

「あれ」戸がうまく閉まらない。普段はよく閉まる戸なのにおかしい。うん? 下を見るとレールの上に彼女のローファーシューズが乗っかっているではないか。

「あ、ちょっと、足どけてくれる?」

「え」

「足」ぼくは彼女の足を指さす。「どけてくれる? 戸閉めるから」

「ああ、……開けといて」

「?」

「へえー。こんなところに住んでるのね。男の人って」

「開けといてって……」声が小さくなる。たしかに突き当たりの部屋だけど、でもこれじゃあ、向かいの部屋からだってまる見えじゃないか。やめてくれよ。首が、夕暮れの街を歩くジャンバルジャンのようにガクッと落ち込む。

「ああ、そうなの。……このコタツが机代わり。へえ」

 開け放された上がりがまちに座った女がいて、この女は勧められた座布団さえ敷かず、首を動かしてあたりを見回し、“あれは何? これは何?”タイムスリップした縄文人のごとく質問し続け、横にはかしこまり、額のあたりをこすりながら説明している男がいて……、さっきから思ってたんだけど、そう、これは家庭訪問の図だ。玄関に座っている小学校の先生と、家庭のことを一生懸命説明している母親の図だ。

「そう、これが流し。……うん、確かに狭いんだけど、でも、結構ご飯炊いたりもするけど」「そう、寝るときはこのコタツをどける。ああ、フトンはこの押し入れの中」「そう、暗い。……いや、一日中こう。去年隣にアパートが建ったから」

 どうしてこんなにまで事細かく事情説明しなきゃいけないんだ。警察の取り調べか。お前は刑事か。泣きたくなってきた。

「なるほど。これが男の人の部屋なのね。……ありがとう。あ、いいの。駅はさっき通って、分かってるから」

 先生は立ち上がり、出て行かれた。わずか一〇分足らずで家庭訪問は終わった。

2/3ページ

著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント