「縁」がつないだ都築章一郎の意欲 フィギュアスケート育成の現場から(15)
トップクラスの国へと上り詰めた現在の日本
今年78歳になる今もリンクへと向かう生活を送る都築章一郎。「自分でもあきれかえっています」 【松原孝臣】
「世界に通用する選手を育てたい」。都築が抱いていた夢の先に、世界でもトップクラスの国へと上り詰めた現在の日本がある。
競技のレベルばかりではない。1960年代末、モスクワで実感した、フィギュアスケートが文化であるソ連(現ロシア)に対し、レジャーにすぎなかった日本との彼我の差。だが日本でのフィギュアスケートへの注目、関心、理解も大きく進んだ。
変化が進む中、都築は自身が運営も担いながら指導にあたっていた新松戸のリンクが閉鎖した後、系列の仙台のリンクへと移り、仙台のリンクが閉鎖されたあとは横浜市の神奈川スケートリンクへと移った。そして78歳になる2016年になっても、リンクへと向かう。
「自分でもあきれかえっています」
都築は笑う。
指導者としてのモチベーションは「出会い」
リレハンメル五輪に出場した井上怜奈(写真)。その後、出会ったのが羽生結弦だった 【写真:青木紘二/アフロスポーツ】
「本当は井上(怜奈)のときにやめようかなと思っていたんです。そのとき羽生(結弦)と出会った。ここ(神奈川スケートリンク)に来たら、青木(祐奈)と出会いました。体の許す限りは続けたいと思っています」
もう区切りにしよう。そう思うたびに、教えていきたい、続けていきたいと思う選手と出会うことができた。それが原動力となってきた。
井上は都築が新松戸のリンクで教えていた選手で、92年のアルベールビル五輪に小山朋昭とのペアで、94年のリレハンメル五輪はシングルの代表として出場した(06年のトリノ五輪は米国代表のペアとして出場している)。
その後、仙台で出会ったのが羽生だった。羽生が小学2年生の時だ。その後、中学生の頃まで教えた。東日本大震災のため仙台のリンクが休止せざるを得なくなったあとには、都築が移っていた神奈川で羽生が練習する時期もあった。
「縁と言うんですかね」
区切りとも考えていた井上のあと、羽生によってその気持ちは変わったと言う。