大横綱・北の湖が引き際を悟った声援 責任を背負い続けた62年の生涯
記憶に残るのは負けた相撲
昭和を代表する横綱北の湖は両国国技館のこけら落としとなった昭和60年1月場所で土俵に別れを告げた 【写真は共同】
おそらく、多くの相撲ファンも同じ思いなのではないか。北の湖が負けた相撲は記憶に残っているが、勝った相撲がすぐには思い出せない。「憎らしいほど強い」と言われた横綱が当時、負けることは“事件”だった。テレビなどで「懐かしの名勝負」を振り返るとき、北の湖の映像のほとんどは負けた相撲である。それは大横綱であった証明に他ならない。
勝って当たり前。北の湖自身はそれを「横綱としての責任」と言った。その原点となった相撲がある。綱とりとして迎えた昭和49年7月場所は、14日目が終わった時点で13勝1敗と単独トップに立ち、横綱昇進はほぼ手中に収めていた。千秋楽は1差で追う横綱輪島との対戦。精神的には気楽にいけるはずだった。
21歳の“怪童”が勝てばすんなり優勝だったが、土俵際まで攻め込みながら最後は輪島の“黄金の左”下手投げに屈すると、決定戦もまるで再生映像を見るような同様の展開で左からの下手投げに沈んだ。本割、決定戦と屈辱の2連敗。つかみかけた賜盃は手元からすり抜けた。
「先を走っていたのに、連敗して恥ずかしさと悔しさしかなかった。でも、あの時の悔しい気持ちを常に持っていたから、いつか追い越してやろうという気にもなれた。それで10年間、横綱でいられたと思う」とのちに語っている。
「不安」しかなかった横綱昇進
「最年少記録は意識も興味もなかった。27、8歳で終わったら恥ずかしい。30歳までは何とか務めたい。そう思っていたので不安しかなかった」
優勝してもうれしさは一向に湧いてこない。賜盃を抱こうが抱くまいが、毎場所千秋楽を終えるとホッとするだけだった。無事に横綱の責任を果たしたという安堵(あんど)感しかなく、その繰り返しだったという。
横綱昇進から4場所目の昭和50年3月場所千秋楽。あの時は日本国民のほとんどが、大関貴ノ花の優勝を望んでいたと言っても過言ではなかった。“大ヒール”となった北の湖だったが、当人にそんなことを憂いている暇はなかった。
「どんなふうに見られようと関係なかった。とにかく優勝しなければという意識だった。それが横綱の責任だと思っていたし、甘い気持ちを持っていたら、そこからズルズル行きそうだったから、目標は常に厳しいところに置いていた」