大横綱・北の湖が引き際を悟った声援 責任を背負い続けた62年の生涯

荒井太郎

全盛期では考えられなかった声援

現役引退後は相撲協会の顔である理事長にも就任。危機的状況にあった大相撲を救い人気復活の礎を築いた 【写真は共同】

 とにかく、横綱として恥ずかしくない結果を残そうと、1場所1場所が必死だった。輪島とは毎場所のようにしのぎを削り、“輪湖時代”と言われた昭和50年代前半は優勝を分け合った。一時は3勝12敗と大きく水をあけられていた対戦成績も次第に均衡していき、最終的には21勝23敗とほぼ互角にまでこぎ着けたのも、持ち前の責任感がそうさせたのだった。

「対戦成績を広げられたら、それも記録に残ってしまう。だから、優勝が懸かっていなくても、意地でも勝ちたいという気持ちがあった」

 互いに左四つであることから、“輪湖”の戦いはしばしば長い相撲となった。しかし、「がっぷりになると相手に体重をかけられるから、疲れるのを待っていたんだ」と長くなるのは多分に戦略でもあった。だからこそ、長い相撲となっても内容が凡庸になることはなく、すべてが熱戦であった。

 昭和53年には5連覇と当時の年間最多勝記録となる82勝をマーク。この年から3年間ぐらいが全盛期であった。入門以来初の休場となった昭和56年11月場所を境に休場が増え、皆勤しても星が12勝に届かなくなってきた。すると館内からは「頑張れ」の声援。全盛期には考えられない現象だった。

「『頑張れ』と言われたときは、自分の力が落ちたんだと思いました」。

 体はもはや満身創痍(そうい)。「頑張れ」という声援で“潮時”を悟ったのは、長い大相撲の歴史の中でも北の湖だけだろう。昭和59年5月場所で自身最後の24回目の優勝を果たすと、翌年1月場所3日目に引退を表明した。

引退後に覚えた解放感

 一代年寄北の湖になってからは本場所を直前に控えても、いつものように体全体が緊張感で金縛りのように締め付けられることはなくなった。

「俺はこんなにもストレスで凝り固まったまま、相撲を取っていたのか」

 引退直後に覚えた解放感の大きさは、それまで背負い続けてきた責任の重さの反動に他ならなかった。
 理事長時代はその責任感の強さで、存亡の危機にひんしていた大相撲を劇的によみがえらせ、人気をV字回復させた功績は計り知れない。一方でその代償として現役時代同様、ストレスも知らず知らずのうちにため込んでいたのかもしれない。62歳での急逝はあまりにも早かった。

 生前、唱えていた『土俵の充実』は実を結びつつある。あとは次世代が故人の遺志をしっかり引き継いでくれることだろう。

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著者プロフィール

1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、百貨店勤務を経てフリーライターに転身。相撲ジャーナリストとして専門誌に寄稿、連載。およびテレビ出演、コメント提供多数。著書に『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』『歴史ポケットスポーツ新聞 プロレス』『東京六大学野球史』『大相撲事件史』『大相撲あるある』など。『大相撲八百長批判を嗤う』では著者の玉木正之氏と対談。雑誌『相撲ファン』で監修を務める。

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