偶然は1つもない佐藤寿人の「157得点」 J1最多得点記録に並ぶまでの16シーズン
憧れ続けた偉大なストライカーの記録に並ぶ
J1最多記録に並ぶ通算157点目を決め、駆け出す佐藤寿人 【写真は共同】
ただ、寿人は決して、成功者の道を約束されていたわけではない。もちろん、年代別代表の常連だった彼の将来性は、高く評価されていた。だが、プロ2年目の2001年、ワールドユースから戻ってきた寿人を待っていたのは、ジェフ市原(当時)でのベンチ外という試練。2001年のセカンドステージはわずか3試合73分間の出場のみ。メンバー入りすら4試合のみという状況では、寿人も自らのサッカー人生について考えざるをえない。
「ジュニアユースから育ったクラブに対する甘えがあったのかも。将来のために、1度外に出た方がいい」
2002年、彼はJ2のC大阪に期限付きで移籍する。だが誤算は、移籍早々に体調を崩し、プレーできない日々が長く続いたこと。シーズン18得点を記録した大久保嘉人の他、イングランドから復帰した西澤明訓や眞中靖夫ら多士済々のFWが鎬を削る中、寿人は存在感を失っていく。13試合出場2得点。成長を期した期限付き移籍は、思惑とは全く違う結末に行き着いた。
点取り屋として覚醒した仙台時代
第3のクラブ・仙台で寿人(左上)は点取り屋として覚醒した 【写真は共同】
J1残留を決めた仙台は、マルコス、山下芳輝に続く「第3のFW」を探し、寿人に白羽の矢が立った。当時、入籍を決意していた彼は、悲壮な思いを胸に仙台へと向かう。
「ここで結果を残せなければ、もう僕はサッカー選手として終わってしまう。絶対に成功する。守るべき人がいるんだ」
第3のクラブ・仙台では当初、寿人は期待されていなかった。だが、マルコスの故障によって開幕先発の座をつかむと、結果を出す。開幕2戦目の横浜FM戦での同点弾。残留争いの直接対決となった京都戦での魂の2ゴール。仙台で初めて11番を背負った寿人は、どんなに厳しい状況にあっても諦めずに走り続け、このシーズン9得点をたたき込んだ。この翌年から彼が12年間連続して二桁得点を記録するとは、もちろん誰も想像していないが、若き点取り屋の覚醒は注目に値する。そして、2005年。寿人は広島の選手となった。