尽きない馬への感謝と五輪での悔しさ 62歳で東京五輪狙う障害馬術・中野善弘
良馬CRNベガスとの出会い
初めて五輪に出た時には、緊張からか馬の鼓動が足に伝わるぐらいだった 【スポーツナビ】
強い国では年間に1万頭ぐらい馬の生産をしています。日本の場合は、競馬のための競走馬が中心なので、乗用馬は年に200〜300頭しか生まれていないですかね。海外だと馬の生産量が100年変わらず続いているので、スケールが全然違います。そこに日本とのギャップがあります。
――日本は競馬が盛んなので馬はたくさんいると思っていました。競走馬と乗用馬は全然違うのですか?
ずいぶん違うと思います。日本も競走馬の数は増えていると思いますが、乗馬馬は海外からの馬を利用している方が多いです。それに海外も、本当に良い馬は売らないですよね。ですから、海外に住み込んで仔馬から育てて、良い馬を準備したりします。
――その中で中野選手が五輪を狙う理由に「良い馬に出会えた」と話されていました。現在、一緒に競技をされているCRNベガスとの出会いは?
昨年の春ぐらいに最初のテストをし、夏と秋にもテストをしました。最初はどうしてもうまく乗れませんでした。馬がすごい繊細で、乗りこなせれば良い馬だなと思っていたので、何度かトライしました。簡単に説明すると、馬に力がありすぎると言いますか、引っ張っても止まれないぐらいです。
――言うことを聞かない馬だった?
言うことを聞かないのではなく、「強さ」がありました。車と一緒で、F1のようなマシンにはハンドルに遊びがないと思うのですが、それと一緒で、力が強くて全然遊びがないのです。ちょっとバランスを間違えると、突っ走っていかれるような感じです。
それで1度は諦めたのですが、2回目に行った時に偶然競技で乗っていた姿を見て、良い成績だったので、もう1度テストさせてもらいました。それでも乗れなくて、どうしようかなと。2度目も諦めたのですが、3回目に行った時、やっぱり気になっていまして。もう1度テストしたいと話した時は、「売りたくない」と言われ、仕方がなくほかの馬も見に行ったのですが、帰る間際にもう一度だけテストをさせてもらい、やはり強くて乗れるか心配もありましたが、最終的にはいろいろ相談して買うことに決めました。
――具体的にはどんな馬なのでしょうか?
精神的に熱い馬で、馬自体の強さもあり、今まで、このようなタイプの馬には乗ったことがありませんでした。それで自分も乗りこなしたい、乗りこなせれば日本で活躍できると思いました。
日本に来てからは馴染んできたといいますか、馬との折り合いを感じますし、私も馬に合わせられるようになってきました。その中で、少しずつ上げていき、国内戦では勝てるようになってきました。ただ、まだ手の内には入っていないですね。
――ポテンシャル的にまだ上を目指せると?
そうですね。あとは自分の練習量と、自分の技量を合わせて伸ばしていきたいです。
自分を突き動かした五輪での悔しさ
強い馬との出会いが、再挑戦の引き金となったが「あとは自分の練習量と、自分の技量を合わせて伸ばしていきたい」と挑戦する姿勢を示す 【スポーツナビ】
五輪から五輪の間の4年ごとに、いろいろな馬との出会いがありました。結果は別として、今度はどんな馬でどんなチャレンジができ、自分がどこまでやれるのか。それがチャレンジでした。
1番最初に行った時は、ぎりぎりで五輪の出場権を獲得し、その間に自分が精神的にも技術的にも成長できました。それが五輪の結果よりも、満足感や達成感はありました。
次からは結果を目指して、ソウル、バルセロナ、アトランタに臨みましたが、その間に馬が亡くなったり、悪天候に見舞われたりと、悔しさの中でずっとやってきました。もし満足できていたら多分、選手として試合に出続けることはなかったと思います。
――悔しさが自分を動かす理由になったのですね?
それが自分の中で一番大きいですね。悔しさというのは、馬が亡くなってしまい五輪に出られなかったということより、馬に対して申し訳なかったと。次は絶対に、違う馬とのコンビでいいから目指したいという思いがありました。
限界を決めたら絶対ダメ
東京五輪まで5年。多忙を極める中で、「できる限りのことはしていく」と話す 【スポーツナビ】
全日本は勝ちたいです。まだ下のクラスですが、そこでしっかりできたら、来年は上のクラスに行けると思います。強い選手もたくさんいますし、全日本は五輪を目指す選手もたくさん出ますので、人のことではなく、自分自身の挑戦として、相手がどうこうではなく、自分の中でベストを尽くせたらと思います。
――20年東京五輪まではあと5年ですが、どのような計画を考えていますか?
20年を目指すのであれば、リオ五輪が終わった後に、すぐにヨーロッパに出て、競技会に出場しないと力がつかないと思います。もちろんそのタイミングで、(ほかの仕事との兼ね合いで)許される状況であればですが。なかなかそういかない部分も多いのですが、その中でできることはしていきたいと思います。
――世界との距離を測るためには、いろいろな世界大会に出る必要があると思います。
そうですね。アジア大会やワールドカップ、五輪に出るためには世界選手権が非常に大事なので、そういう大会にも挑戦できればと思います。
――もし20年東京五輪出場できたら、どんなことを伝えたいですか?
ここまでやってこれたのは馬のおかげだと思っています。もちろんクレインに居れたからですが。五輪の出場自体は、順調にいけば31歳のソウル五輪でやめようとは思っていました。ただ悔しい思いをしたこともあり、「もう1回、もう1回」と思って、アトランタ五輪まで頑張ることになりました。そして今度は20年東京五輪が来るということで、「もう1回」と。頑張ろうと思ったのが、馬のおかげであり、五輪があってこそです。自分が無理だと限界を決めたら、絶対ダメだなと思います。ですから31歳でやめようと思ったのが。57歳でも続けていますからね(笑)。「できる」と思っていてやらないと、人間はダメになってしまうと思います。
そういう意味では「悔しさ」がひとつの自分のキーワードなのですが、その悔しさと同時に良い馬がいてくれて、そこがつながってくれたことが、今まで続けてきた理由だと思っています。
(取材・文:尾柴広紀/スポーツナビ)
1958年6月2日 大阪生まれ
所属:乗馬クラブクレイン
主な海外戦歴:1984年 ロサンゼルス五輪 日本代表
1988年 ソウル五輪 日本代表
1990年 世界選手権(ストックホルム) 日本代表
1992年 バルセロナ五輪 出場権獲得 ※直前に馬が亡くなったため出場辞退
1996年 アトランタ五輪 日本代表
1996年 年間ワールドカップランキング 1位
1997年 ワールドカップファイナル(スウェーデン) 日本代表
1998年 世界選手権(ローマ) 出場資格獲得
主な指導実績:1997年 日本馬術連盟 障害本部長就任
1998年 世界選手権 障害ヘッドコーチ
1998年 アジア大会(バンコク) ヘッドコーチ
2000年 シドニー五輪 総監督
2011年 日本馬術連盟 障害本部 副強化委員長就任
2014年 ユース五輪(南京)、世界選手権(ノルマンディー) 総監督
小学校6年の時に、父親が乗馬を習っていた影響から、自身も乗馬を始める。大学を退学した後、クレインに入社。米国で技術を磨き、その後日本国内の大会で連勝し、4度の五輪出場権を獲得。05年には国内競技500勝も達成。
現在は同社の関東圏の事業所を束ねる支社長と、障害馬術部門のコーチを務める。また日本馬術連盟の障害馬術本部副強化委員を兼務し、若手選手の育成なども行っている。