恩師が見つめてきた羽生結弦の進化 「五輪王者」という夢が実現した瞬間
「五輪へ行こう、世界一になろう」と羽生結弦に語りかけてから11年、その言葉は現実のものとなった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
成長するために必要な条件を備えていた
非常に賢い子供でしたね。精神的には細かくてややデリケートな部分はありました。羽生の家族も指導者の言うことに対して、しっかりと理解されていましたね。お姉さんがいて、家族の絆もあり、苦しいトレーニングのケアを精神的にも肉体的にもできる条件がありました。
――羽生選手を最初に見たとき、どういう部分が優れていると思いましたか?
やはり繊細なものを持っていましたから、フィギュアスケートに必要な音楽的な表現や感性という部分を備えていましたね。あとは何かを得るために自分でできることをしていました。時代は違いますが(エフゲニー・)プルシェンコのビデオをかなり見ていて、それに影響され、そこからスケートへの想像力を養っていました。それと羽生の場合は荒川静香らと練習場所が同じで、うまくなる条件もありましたね。
――羽生選手と他の選手を比べて違うのはどういう部分でしょうか?
それぞれ選手の特徴はありますが、羽生の場合は小さい頃から成長できる条件を備えていました。要するに羽生自身だけではなく家族などの環境です。お姉さんがいて、ご両親にも理解がある。そして羽生自身もそうした期待に応えられる人間性を持ち合わせていたというところが大きいと思います。
――一流選手になるためにはそういった条件が必要なんですね。
やはり最低条件がありますよね。フィギュアスケートに必要な条件が100あるとすれば、羽生は100に近いものを持っていました。だいたい初めはどの選手も条件はそろっていないんです。環境やコーチによってだんだんと作られてくるのですが、羽生はそういったものを最初から備えていましたね。
小学校2年生のときに話したこと
そうですね。お姉さんがスケート教室に来ていまして、それに付いてきたのが最初です。そのときはぜんそくがあったので、ご両親も健康のためにお姉さんが行っているから一緒に、という形でスケートを始めたのではないかなと思います。だから、私と出会ったときはまだまだフィギュアスケートを始めて、初歩から少しうまくなったかなというレベルでした。
――都築コーチはどういう指導をされたのですか?
佐野(稔)を育てた経験が、羽生を指導するにあたって大きな題材になったんです。羽生はどう思っているか分かりませんが、指導者としては早く、効果的に良いものを伝えることができたと思います。
――指導していた期間で一番印象に残っている試合はありますか?
羽生が小学生のときに、初めて海外のノービスの試合に連れていったんですけど、そこで優勝したんです。練習した成果が出たなと思ったし、将来の大きな目標に向かって一つステップが上がったなと。そのときはうれしかったですね。これが土台になって世界へ羽ばたいていけるスケーターになっていくという感覚を持つことができました。
――小さい頃に土台を築くことがやはり重要なのですね。
フィギュアスケートで一番大切なのはそれなんですよ。良いスケーター、世界へ羽ばたけるスケーターというのは、小さいころにしっかりした土台を作るというのが一つの生命線です。羽生の場合は、彼が小学校2年のときに私が「五輪へ行こう、世界一になろう」と話し、そういう土台作りをしてきましたから。それが実ってくれてものすごくうれしかったです。私がそのとき教えていなくても、彼が五輪のメダルを取ってくれたときは感謝して、「どうもありがとう」と言いましたね(笑)。
ソチ五輪で金メダリストになった羽生。都築コーチは「先生もこのメダルを取りたかったんだよ」と言ったという 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
「みんなに喜んでもらえるかな」と謙遜していました(笑)。「先生もこのメダルを取りたかったんだよ」と羽生に言ったら喜んでいましたね。
――小学生の頃から五輪に行こうという話をされていたんですね。
そういう夢を持って、そのために本人もご両親も努力していたと思うんです。たぶん、(13年の)グランプリファイナルで優勝したときに意識したかもしれないけれど、よもや五輪チャンピオンになるとは、羽生も思っていなかったと思うし、私も一つサイクルが早かったと思っています。ただそれぞれの運命、持って生まれたものがあった。それは人間的なものでしょうね。技術を生かせたのも、羽生自身に人間としてしっかりしたものが備わっていたからだと思います。