羽生結弦ら一流選手を育てた名伯楽 都築章一郎の「本物」を追求した50年

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 2014年に行われたソチ五輪で羽生結弦(ANA)が金メダルを獲得したことにより、日本男子フィギュアスケートは新たなステージに突入した。羽生以外にも実力者を多く擁し、いまや世界でも有数のフィギュア大国として認知されている。しかし、かつての日本には諸外国とのレベル差を埋めようともがき苦しんでいた時期があった。そんな中、日本人選手として初めて世界への扉を開けたのが、現解説者の佐野稔さんだ。1977年に東京で開催された世界選手権で銅メダルを獲得。男女通じて日本人選手として初の快挙であった。

指導歴が50年を超える都築章一郎コーチ。羽生結弦も教え子の1人である 【スポーツナビ】

 その佐野さんを幼い頃から指導し、一流選手へと育て上げたのが都築章一郎コーチである。現在77歳。指導歴は実に50年以上を誇る。その間、多くの選手を世界に羽ばたかせてきた。そして日本男子初の五輪金メダリストとなった羽生もまた、小学校2年生から高校に上がるまで都築コーチの指導を受けている。日本のフィギュアスケートの土台を築いてきたと言っても過言ではない都築コーチに、指導者としての理念、教え子たちとの日々、今もリンクに立つモチベーションなどについて語ってもらった。

根っことなったのは佐野との出会い

――指導歴が50年以上になります。そもそもなぜ指導者になろうと思ったのですか?

 私は出身が名古屋なんですよ。高校まで名古屋にいて、日本大学入学を機に東京に出てきました。日本学生氷上競技選手権大会(インカレ)はアイスホッケー、スピード、フィギュアの3部門で競われるのですが、日大のスケート部には当時フィギュア部がなかった。総合優勝するためには、フィギュア部も新設して強化しなければいけないということで、私に声がかかりました。

 それで大学中に自分でも選手をやりながら、同時にコーチも兼ねていたものですから、スケートへの関心とつながっていき、指導を始めたというのが出だしなんです。そして甲府で行われた日大の合宿に私が参加したときに、小さいころの佐野を紹介されました。私にとって指導者としての最初の大きな出会いが佐野だったわけです。そこから50年近く経って、今度は羽生に出会ったというのが大きな流れです。

――佐野さんは当時何歳くらいだったのでしょうか?

 小学校2年生くらいだったと思います。私は大学を卒業してから東武百貨店に就職したのですが、実は勤務先の池袋にスケート場があったんです。そこでスケートの授業をしながら、指導をしてくれという依頼がありました。それと同時に佐野と出会ったものですから、初めは土日に私が甲府に行って教えて、小学校5年生くらいからは佐野がこちらへ出てきました。佐野が私の家の近くに下宿し、一緒に取り組んだのが佐野が大学2年生のときまでです。佐野は77年の世界選手権で3位となり、日本人で初めてメダルを取るようなスケーターに成長しました。それが私のスケート人生の大きなキーポイントとなって今日に至ります。

 今振り返ってみますと、こうしたことが大きな一つの根っことなったのかもしれません。そして羽生と私が仙台で出会って、ある意味、集大成となった。羽生とのマンツーマンで小学校2年生くらいから教えるようになり、高校1年生くらいまで指導を長々とやっていました。その間には私が仙台から東京に戻ったり、羽生がこっちに来たりと、佐野のときと同じような形でやっていたんですね。

76年のインスブルック五輪に出場した佐野稔さん。77年世界選手権では3位になるなど、世界の舞台で活躍した 【写真:山田真市/アフロ】

――指導してきた中で印象に残っている選手は?

 男子ではやはり佐野ですね。佐野と同時並行で五十嵐文男という選手がいまして、彼も世界選手権で4位になりましたが、慶応で1人っ子でやっぱり東京の子だなと思いました(笑)。今はコーチになっている長久保裕なんかも、佐野と一緒に下宿していました。長久保はちょうど同じ時期に私が指導していたし、今も非常に活躍しているコーチですね。それから無良隆志もいました。これは松戸なんですけど、私と一緒に下宿していましたし、男子ではだいたい現在活躍しているコーチたちが、若いときに私と一緒にスケートに取り組んでくれていました。

 女子ではペアの井上怜奈がいましたね。あの子は3歳のときから私がだっこしていました(笑)。現在だと、ロシアに行ってペアでやっている川口悠子、それから高橋成美なんかも小さい時に私のもとでやっていましたね。全日本選手権で優勝した横谷花絵なんかもいました。それとアイスダンスでは私の子供(都築奈加子)がやっていましたし、日本では環境が良くなかったこともあり、ロシアの選手と組ませていました。私の大きな夢は、世界に通用する本物のスケーターを作ろうというものだったんです。たくさんの子供たちと出会い、共にやってきた50年でした。

3回転を跳ぶことが大きなテーマだった

――本物のスケーターを作るために、具体的にどういうことをやってきたのでしょうか?

 当時は人材を選択できるような環境が日本にはなかったんです。だから出会った子供とまず取り組み、その子にシングル、ペア、アイスダンスをやってもらって試行錯誤をしながら、海外の選手とカップルを組ませたり、向こうへ行ったり、とにかく良いものを作ろうとしていましたね。

 そういう意味で羽生の場合は、初めから世界に羽ばたいて、本物のスケートを作ろうと2人で話しながらやっていました。昔は日本で3回転ジャンプを跳べる選手がいなくて、見る環境もない中で、何としても3回転を跳ぼうというのが大きなテーマでした。佐野が日本の選手として世界の舞台で初めて3回転を跳んだというのも、本物を追求した結果だったんだと思います。

――本物を追求するという考えでやっていたのは、都築コーチが若いときから世界との差を感じていたから?

 そうですね。いつも背景にそれがあります。あまりにも世界と日本のフィギュアスケートは差があった。環境もそうですけど、選手たちの状況を見ても、やはりこれを打破するには本物を作り上げるしかないと。今みたいに情報も簡単に取れませんし、こちらが海外へ行ったときに初めて世界の流れが見えて、そこで感じるというようなステップでしたから。本物を作るために非常に回り道をしたと言いますか、時間をかけました。ですから、時間をかけることに耐えた子供たち、同時に彼らの家族の絆に守られて達成できたと思いますね。

――具体的にどういう部分で差があったのですか?

 フィギュアスケートは当時まだ日本ではレジャーみたいなものでしたけど、海外では文化になっていました。歴史がしっかりあって、指導者も日本よりたくさんいる。育てる環境がそろっていましたから、その点が大きな違いです。スケート場にしてもレジャーのものはあっても、それ以外のものはない状態でした。今思えば本当に大変だったなと記憶していますね。

――現在はそれなりに整ってきたという実感はありますか?

 今は海外からの情報もたくさんあり、技術も上がってきました。組織も良いものを作るための環境が整ってきましたし、自分と佐野がスケートを始めた頃と現在では全然違います。そういう意味で羽生の場合は「ないない」と言いながらも、昔と比べたらある程度条件がそろっていた点で違いますし、短い期間で五輪チャンピオンまでたどり着けたのも納得できますね。

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