村田諒太、ロンドン五輪5年前の教訓
北京五輪終了後は堅実路線のはずが…
ロンドン五輪ボクシングミドル級で金メダリストを獲得した村田諒太。果たしてロンドン五輪5年前の村田はどんな選手だったのか!? 【写真:AFLO】
加えてミドル級は、世界選手権で最も出場者数の多い階級であり、44年間、五輪の表彰台から遠ざかってきた日本にとって、まさに雲の上の“頂”に見えていた。しかし村田は金メダルを勝ち取り、帰国後は国民的なスター選手として脚光を浴び続けることになる。それをこの5年前となる2007年の彼に伝えても、まず信じられることはあるまい。当時の村田は「北京五輪が終わったら大学の職員として生きていく。僕の階級ではプロでも、日本人が太刀打ちできる舞台じゃない」と堅実路線を貫いていた。
村田は国内でこそ、KOやRSC(レフェリーストップコンテスト)を量産していたが、国際大会では複雑な思いをくすぶらせていた。04年アテネ五輪で、日本勢は予選通過者ゼロの大敗。かつてない低迷のなか、一抹の期待をかけられたのが村田だった。高校時代に全国大会を5度制覇。05年のタイ国王杯で準優勝すると、アジア選手権でも3位。ホープと呼ぶにふさわしい出世街道を歩み始めたが、これより高いステージでは結果を出せずに伸び悩む。すると06年にフライ級の須佐勝明がアジア大会で銅メダル。07年にはライトウェルター級の川内将嗣が世界選手権で3位。わずかな国際キャリアで、村田を一気に追い抜く仲間が現れ始めたのだ。
判断ミスで敗れたエストラーダ戦
ロンドン五輪の5年前の村田は06年アジア選手権で3位に入るなど期待されていたが、ステージの高い国際大会では伸び悩んでいた(写真は06年アジア選手権) 【写真:AFLO】
挽回を狙うエストラーダは攻撃がラフになって減点を受ける空回り。終盤にも村田の顔をひじで突き上げてくる。即座に村田は審判に抗議の姿勢を取ったが、注意に結びつけられず、その隙に浴びた連打で、わずかな得点リードをひっくり返されてしまった。これが敗因になったミステイクについて、アテネ五輪の代表候補で、現WBA世界スーパーフェザー級王者の内山高志も「反則の取り締まりに厳しい日本で戦ってきた選手がやりがちな判断ミス」と分析している。
その後、村田は北京五輪アジア予選を通過できずに08年に引退。やがてサラリーマン生活と並行しながら再起し、11年の世界選手権で日本史上初の準優勝を成し遂げる。この快挙がマグレではなかったことを証明するように、翌年のロンドン五輪でも決勝へ駒を進めた。
金メダルにつながった審判との駆け引き
ロンドン五輪決勝で頭から突っ込んでくるファルカンを冷静にさばいてレフェリーの減点を呼んだことが金メダルにつながった。これは5年前の世界選手権のミステイクから学んだことだった 【写真:AFLO】
試合のカギとなった減点には、日本の関係者からでさえ、「取るのが早かった」との見解が多い。帰国後、これを村田に尋ねると、レフェリーとの駆け引きを話してくれた。
「焦るように抗議をしたら、審判はそれに屈しまいと身構えると思った。だから、僕はあえて冷静な顔で審判の目を凝視して、これを無視しても大丈夫なのかと、向こうの焦りを誘い続けたんです」
ロンドン五輪では、バンタム級の銅メダルを勝ち取る清水聡の試合で、誤審を起こしたレフェリーが、大会中の審判から外される処分を受けていた。審判たちもこの大舞台で、運営委員会からジャッジングされる重荷を感じていることを、村田は十二分に把握し、「大人の駆け引き」を試みたのだ。もちろんロンドン五輪の5年前と比べれば、村田の成長は、心技体でさまざまな面で見られる。だが特筆すべき具体例となると、あのミステイクと減点トラップを挙げたい。
なお、昨年から日本ボクシング界ではライトヘビー級の全日本選手権が実施され始めた。期待を持ちづらかったはずのこの階級にも、東京五輪でのメダル獲得さえ、選手たちは意識できている。村田の快挙がボクシング界の意識を大きく変えた。一方でロンドン五輪決勝で対戦した村田とファルカンは五輪路線からプロ路線に移り、同じトップランク社とプロモート契約をかわしている。
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ