村田諒太、ロンドン五輪5年前の教訓

善理俊哉
 今年は2020年東京五輪のちょうど5年前にあたる。区切りのいい数字ではあるが、翌年に五輪を控えた年でもある。翌年の五輪で最高の結果を求めるために鍛錬に励む選手、五輪への出場権を逃して次回大会として5年後の出場を目論む選手、まだ競技すら始めていない選手――いろいろな選手がいるだろう。オリンピアンの5年前ってどんな感じという疑問に答えてもらうべく、今回はライター・善理俊哉さんにロンドン五輪金メダリストの村田諒太の5年前に迫ってもらった。村田の5年前はどんな選手で、どんなことを考えていたのだろうか!?

北京五輪終了後は堅実路線のはずが…

ロンドン五輪ボクシングミドル級で金メダリストを獲得した村田諒太。果たしてロンドン五輪5年前の村田はどんな選手だったのか!? 【写真:AFLO】

 ロンドン五輪ボクシング・ミドル級で金メダルを獲得した村田諒太は、日本ボクシング界が最後に果たしたい目標を、いきなりやってのけたようなものだった。日本にとってミドル級は、国内で実施している中で最も重いクラスであり、選手層が最も薄いクラスでもあった。それより重いライトヘビー級以上にはすでに見切りがつけられており、夢とも目標とも言いがたかった。もし村田が階級を上げて五輪を制したとしても、「穴場の階級を見抜いた」と思われかねないほどだった(実際のライトヘビー級はかなりのハイレベルだが…)。

 加えてミドル級は、世界選手権で最も出場者数の多い階級であり、44年間、五輪の表彰台から遠ざかってきた日本にとって、まさに雲の上の“頂”に見えていた。しかし村田は金メダルを勝ち取り、帰国後は国民的なスター選手として脚光を浴び続けることになる。それをこの5年前となる2007年の彼に伝えても、まず信じられることはあるまい。当時の村田は「北京五輪が終わったら大学の職員として生きていく。僕の階級ではプロでも、日本人が太刀打ちできる舞台じゃない」と堅実路線を貫いていた。

 村田は国内でこそ、KOやRSC(レフェリーストップコンテスト)を量産していたが、国際大会では複雑な思いをくすぶらせていた。04年アテネ五輪で、日本勢は予選通過者ゼロの大敗。かつてない低迷のなか、一抹の期待をかけられたのが村田だった。高校時代に全国大会を5度制覇。05年のタイ国王杯で準優勝すると、アジア選手権でも3位。ホープと呼ぶにふさわしい出世街道を歩み始めたが、これより高いステージでは結果を出せずに伸び悩む。すると06年にフライ級の須佐勝明がアジア大会で銅メダル。07年にはライトウェルター級の川内将嗣が世界選手権で3位。わずかな国際キャリアで、村田を一気に追い抜く仲間が現れ始めたのだ。

判断ミスで敗れたエストラーダ戦

ロンドン五輪の5年前の村田は06年アジア選手権で3位に入るなど期待されていたが、ステージの高い国際大会では伸び悩んでいた(写真は06年アジア選手権) 【写真:AFLO】

 その後、川内とフェザー級の清水聡が北京五輪の出場権を獲得し、自分が出場できなかったことで「彼らを妬んだし、北京五輪はどの競技も見なかった」と打ち明けているが、07年当時はこうした“ふて腐れ”を見せることは少なかった。同年に行われた世界選手権2回戦で敗れたものの、「1回戦でやっと旧ソ連の選手に勝てたし、2回戦も僕のミステイクだった」など、口にする言葉は比較的ポジティブ。村田は現在プロで16戦無敗のショーン・エストラーダ(アメリカ)に12対17で敗れたが、確かに中盤までは優位に試合を進めていた。

 挽回を狙うエストラーダは攻撃がラフになって減点を受ける空回り。終盤にも村田の顔をひじで突き上げてくる。即座に村田は審判に抗議の姿勢を取ったが、注意に結びつけられず、その隙に浴びた連打で、わずかな得点リードをひっくり返されてしまった。これが敗因になったミステイクについて、アテネ五輪の代表候補で、現WBA世界スーパーフェザー級王者の内山高志も「反則の取り締まりに厳しい日本で戦ってきた選手がやりがちな判断ミス」と分析している。

 その後、村田は北京五輪アジア予選を通過できずに08年に引退。やがてサラリーマン生活と並行しながら再起し、11年の世界選手権で日本史上初の準優勝を成し遂げる。この快挙がマグレではなかったことを証明するように、翌年のロンドン五輪でも決勝へ駒を進めた。

金メダルにつながった審判との駆け引き

ロンドン五輪決勝で頭から突っ込んでくるファルカンを冷静にさばいてレフェリーの減点を呼んだことが金メダルにつながった。これは5年前の世界選手権のミステイクから学んだことだった 【写真:AFLO】

 村田と対峙した決勝の相手エスキバ・ファルカン(ブラジル)は、前年の世界選手権で圧倒した相手だったが、村田自身が「リオ五輪までに自分を超える」とその才能を高く評価した逸材でもあった。第1ラウンドは今回も村田がリード。ところが第2ラウンドが終了の時点で、ファルカンとの点差は縮まった。逆転の流れ。そんなリスクを感じさせる中で、最終の第3ラウンド、レフェリーがファルカンから減点(マイナス2点)を取った。猛追するファルカンの姿勢が頭突き気味だったという判断からだ。これで村田は集中力が途切れるハプニングに追い込まれながらも、ファルカンのラッシュをしのぎきって、最終スコアは14対13で村田――。

 試合のカギとなった減点には、日本の関係者からでさえ、「取るのが早かった」との見解が多い。帰国後、これを村田に尋ねると、レフェリーとの駆け引きを話してくれた。
「焦るように抗議をしたら、審判はそれに屈しまいと身構えると思った。だから、僕はあえて冷静な顔で審判の目を凝視して、これを無視しても大丈夫なのかと、向こうの焦りを誘い続けたんです」

 ロンドン五輪では、バンタム級の銅メダルを勝ち取る清水聡の試合で、誤審を起こしたレフェリーが、大会中の審判から外される処分を受けていた。審判たちもこの大舞台で、運営委員会からジャッジングされる重荷を感じていることを、村田は十二分に把握し、「大人の駆け引き」を試みたのだ。もちろんロンドン五輪の5年前と比べれば、村田の成長は、心技体でさまざまな面で見られる。だが特筆すべき具体例となると、あのミステイクと減点トラップを挙げたい。

 なお、昨年から日本ボクシング界ではライトヘビー級の全日本選手権が実施され始めた。期待を持ちづらかったはずのこの階級にも、東京五輪でのメダル獲得さえ、選手たちは意識できている。村田の快挙がボクシング界の意識を大きく変えた。一方でロンドン五輪決勝で対戦した村田とファルカンは五輪路線からプロ路線に移り、同じトップランク社とプロモート契約をかわしている。
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著者プロフィール

1981年埼玉県生まれ。中央大学在学中からライター活動始め、 ボクシングを中心に格闘技全般、五輪スポーツのほかに、海外渡航を生かした外国文化などを主に執筆。井上尚弥と父・真吾氏の自伝『真っすぐに生きる。』(扶桑社)を企画・構成。過去の連載には『GONG格闘技』(イースト・プレス社)での『村田諒太、黄金の問題児』などがある

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