リンクに立ち続ける濱田美栄の信念 フィギュアスケート育成の現場から(2)
大きな変化を遂げたフィギュアスケート界
日本のフィギュアスケート界が変わったきっかけは、荒川静香の金メダル獲得だったと振り返る濱田 【積紫乃】
その間、日本のフィギュアスケート界は大きな変化を遂げた。
今でこそ、グランプリシリーズ、世界選手権、五輪、さらにジュニアなどでも、国際大会では日本の選手が当たり前のように上位に名を連ねる。競技成績の変化ばかりではない。選手たちの活躍があって、数ある競技の中でも、高い認知度を誇る1つとなった。
それらは濱田が指導者の道を歩き始めたころにはなかった光景だ。その光景の違いの間に、濱田の指導者としての歩みがある。
「これだけ変わるきっかけになったのは、やっぱり、トリノ五輪で荒川(静香)さんが金メダルを獲ったことじゃないんですか。あのときから、フィギュアスケートって変わってきたと思います」
濱田は振り返る。
今日とは異なる時代も長かったから、濱田自身、苦しい時期を過ごしたこともある。
その1つが、自身が籍を置くクラブが活動拠点としていた京都の醍醐スケートリンクが閉鎖されたときだ。
それは2005年9月のことだった。「フィギュアスケートが変わるきっかけになった」と濱田が言うトリノ五輪の、5カ月前というタイミングだった。
次々になくなっていったスケートリンク
醍醐スケートリンクが閉鎖されたとき、濱田の教え子には澤田亜紀らがいた 【写真:アフロスポーツ】
閉鎖に追い込まれた理由の主となったのは、2002年、京都市が夏季はプール、冬はスケートに利用できる京都アクアアリーナを開設したことによる利用者の減少にあったという。
醍醐スケートに限らず、京都府内では1986年と1999年にそれぞれ1つずつ、リンクが閉鎖されていた。府内だけではない。滋賀県の竜王スケートリンクは2000年に、2004年には大阪府高槻市の高槻O2スケートリンクが閉鎖となっていた。スケートリンクが次々になくなっていったことは、当時のスケート事情を物語る事実の1つかもしれない。
醍醐スケートが閉鎖されたあと、濱田らクラブのメンバーを待っていたのは、練習場所を求めて転々とする日々だった。京都アクアアリーナはもちろんのこと、滋賀県、大阪府、さらに兵庫県にも足を伸ばした。
選手たちは、濱田が運転する車で遠い道のりを通った。
「車も、みんなが乗ることができるものに買い替えたりしましたね。今、振り返ってみれば、よくそこまで通っていたな、と思うくらい遠くまで行っていました。でもそのころは、逆境とは感じていなかったと思います。あまりしんどいとも思わなかったですね。なにしろ、続けたいという思いだけでしたから」