松本山雅、サポーターとともに悲願の頂へ 飛躍の要因は反町イズムの浸透と背番号3

元川悦子

長野県初のJ1クラブが誕生

J1昇格を決めた松本山雅。5年前は地域リーグにいたクラブが劇的な飛躍を遂げた 【写真は共同】

 10番を背負う男・船山貴之の今季J2・19得点目となる先制弾と、今季途中にベガルタ仙台から期限付き移籍してきた22歳のFW山本大貴の追加点で2−1とアビスパ福岡に勝利した松本山雅。約4分半のアディショナルタイムが過ぎ、試合終了の笛がレベルファイブスタジアムに鳴り響いた瞬間、ゴール裏に陣取った1200人を超える熱狂的サポーターから歓喜の雄たけびが上がった。

 反町康治監督は二人三脚でやってきた柴田峡ヘッドコーチと熱い抱擁をかわし、今季から故郷・松本に戻ってきた田中隼磨は2011年8月に急逝した故・松田直樹の名前と背番号3が入ったインナーシャツ姿になって号泣する。彼らは長年「サッカー不毛の地」と揶揄(やゆ)されてきた長野県にとうとう初のJ1クラブをもたらした。

「僕が松本で育った頃、Jリーグのチームができるなんて考えられなかった。自分も県外に出てつらい思いをしてきたからね」と田中も感慨深げに口にしたように、つい5年前まで地域リーグにいたプロヴィンチャ(地方の中小サッカークラブ)が劇的な飛躍を遂げたことは、まさにミラクルといっても過言ではないだろう。

躍進を支えた熱狂的なサポーター

松本山雅の躍進を支えたのは、地域の人々の温かく力強いサポートだった 【写真:アフロスポーツ】

 1965年に誕生した松本山雅の前身・山雅クラブは、ご存じの通り、北信越リーグで30年以上、戦ってきた町クラブだった。01年のアルウィン(松本平広域公園総合球技場)の完成、02年のワールドカップ(W杯)日韓大会でパラグアイ代表が松本市でキャンプを実施したことなどから「Jを目指すプロチームを作ろう」という機運が高まり、04年から山雅を母体として本格的強化がスタート。05年に松本山雅FCへと改称し、06年に北信越リーグ1部、10年にJFL、12年にJ2と短期間で上のカテゴリーに次々と昇格してきた。

 JFL昇格が決まった09年12月6日の地域リーグ決勝大会最終日・栃木ウーヴァ戦がアルウィンで行われた際には、地域リーグ同士の試合にもかかわらず1万人を超える大観衆が集結。凄まじい熱気を感じさせた。当時を知る唯一の生き証人である鐡戸裕史は「これだけのサポーターに応援されているんだから、自分たちは絶対にJリーグに上がらないといけないと強く思った」と振り返る。JFL時代までは彼を筆頭に大半の選手がアルバイトをしながらのプレーを強いられており、環境も経済的にも決して恵まれているわけではなかった。

 そんな彼らを支えていたのが、地域の人々の温かく力強いサポートだった。大久保裕樹が「松本の人たちの応援は本当にありがたい。松本は僕にとってのパワースポット」だと語っていたが、サポーターの存在がなければ、現在の成功は絶対にあり得なかった。

チームを変えた松田直樹の加入

11年に加入した松田直樹の存在が選手のJに対する意識を変えた 【写真は共同】

 そんな山雅がジャンプアップする最初のきっかけとなったのが、11年の松田直樹の加入である。02年W杯日韓大会でベスト16入りの原動力となった日本代表DFが移籍してきたことで、クラブの注目度は急激に上昇し、選手たちのJに対する意識も確実に変わった。

 松田は「俺たちはJ2に上がるんじゃない。J1に上がるんだ」と口癖のように言っていたが、当時の選手たちはまだ見ぬ大舞台をうっすらとイメージし始めたことだろう。その彼が練習中に倒れて帰らぬ人になるという衝撃的な事件が起きて、チーム全体にJ2昇格への使命感と危機感が生まれた。それが11年後半戦の快進撃、J2昇格決定につながった。この1年は山雅の重要な歴史の1ページとして未来永劫(えいごう)、語り継がれていくはずだ。

反町監督が与えたチームの規律

12年に就任した反町監督はチームに規律を与えた 【写真:アフロスポーツ】

 そして、2つ目の重要なターニングポイントが、12年の反町監督就任だ。アルビレックス新潟、湘南ベルマーレをJ1昇格へと導き、08年の北京五輪代表で本田圭佑や香川真司を指導した経験を持つ日本人きっての知将は、アマチュア的ムードから抜け切れていなかったチームに規律を与え、フィジカルを鍛え直し、守備も基本から徹底的にたたき込んだ。

「最初の御殿場合宿の走りは本当にきつかった」と現在の主力である船山も喜山康平も口をそろえる。「下手なやつは走りでカバーするしかない」という指揮官の考えは確実に浸透し、3カ月で走力テストの数値が2〜3倍に跳ね上がる者も少なくなかった。

 加えて、守りの約束事を緻密に整理したことが現在に至る強みとなった。今季途中まで山雅に在籍していた小松憲太(現アユタヤFC/タイ)は「最初の合宿でミラン、ユベントス、ローマの映像を繰り返し見せられて、いい守備のイメージを植えつけられた。そのうえで、ソリさん(反町監督)の求める守り方を細かく頭に入れていった。その戦術を理解・実践できない人は使ってもらえない。選手起用の判断基準も明確で納得できた」と話した通り、個々の守備意識は目覚ましく向上した。

 もともとはアタッカーだった喜山も「ウチはうまいチームではないし、タレント性の高い選手が好まないサッカーをしていると思うけど、粘り強く守備をして戦えるチームになれたし、自分自身も泥臭く生きていく道を見つけられた」と献身的な守りが光るボランチへと変貌を遂げた。前線の船山にしても「走力がついて前からボールを追えるようになったし、余裕を持ってゴールも狙えるようになった」と攻守両面でダイナミックさを持った選手へと確実に変化していった。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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