身一つで世界に戦いを挑んだ革命家 中国テニスを変えたリー・ナ引退に寄せて

内田暁

中国を飛び出し世界に挑戦

14年の全豪オープンでは2度目のグランドスラムタイトルを手にした 【Getty Images】

 リー・ナという一個人のグローバル化が加速したのは、その翌年のことである。08年の北京五輪終了後、リーは中国テニス協会の檻(おり)を飛び出して、自分の身一つで世界に戦いを挑む覚悟を決めたのだ。

 それまでの中国選手たちは、国にコーチや遠征費等を負担してもらう代わりに、獲得賞金の65%を協会に納めるのが慣例であった。だが母国開催の五輪終了を機に、リーは協会から独立することを決意する。協会には賞金の8%のみを納め、自由の代償としてリスクと自己責任を請け負う。世界で戦うための“チーム・リー・ナ”には、経験豊富なスウェーデン人コーチや、ドイツ人のトレーナーを雇い入れた。中国メディアはそんな彼女に“単飛(中国語で「単独飛行」の意味)”のニックネームを与えたという。「愛国心が足りない」「恩知らずだ」……そんな批判も付いて回った。

 勇気の対価は、“単飛”の約1年後から顕著に現れ出す。09年8月の全米オープンでリーは、06年ウィンブルドン以来となる四大大会のベスト8進出を果たす。さらには翌年1月の全豪オープンでは、第4シードのキャロライン・ウォズニアッキ(デンマーク)、第6シードのビーナス・ウィリアムズ(米国)らを破って、自身初の四大大会ベスト4入りを果たしたのだ。この時、躍進の秘訣を問われたリーは、言い淀むことなく断言した。
「自由を得たからよ。協会から独立してからは誰にも縛られることなく、練習場所や出場大会も自分で決められるようになった。私は、人に指図されるのが大嫌い。だから、今の状態が性に合っているの」

 自由に付随する困難さには触れず、プラスの側面ばかりを強調したのは、メディアに対する彼女のサービス精神だろう。あるいは、後進たちに同じ道を選び取る、その勇気を与えたかったのかもしれない。

“愚か者”が示した道筋

 そんなリーが去る9月19日、現役引退を表明した。シーズン途中の……それどころか、故郷である中国・武漢大会の開幕を2日後に控えた時期での、即日引退。長年、彼女を苦しめてきたひざのケガが、回復不能なまでに悪化したための苦渋の決断だったという。満足に動けぬ姿を地元のファンにさらすことなく、強く美しい記憶を残したままコートに背を向ける――これもまた、彼女らしい幕引きであった。

 リーが記録した最高ランキングは、今年の全豪優勝後に達した世界2位。グランドスラム獲得数は、11年全仏オープンと、今年の全豪オープンの2つ。もちろんいずれも、アジア人選手として最高の成績である。

「あなたのキャリアでは、“2”が大きな意味合いを持っていますね?」

 米国で最も人気あるスポーツ総合誌『スポーツ・イラストレイテッド』のインタビューでそう聞かれると、リーはすかさず「“2”が、中国でどんな意味を持つか知っている?」と問い返した。
「“2”はね、“愚か者”って意味なのよ」

 そう言うと、彼女は笑って、こう続ける。
「将来は2人の子供と、2匹の犬が欲しいわ。“愚か者”のままで行こうっと!」

 革命を起こす者とは……既存の概念に穴を穿(うか)つ人間とは、周囲から“愚か者”と見なされる人なのかもしれない。

 08年の時点では2つしかなかった中国開催のWTAツアー大会は、現在では10を数えている。08年に協会を飛び出したリーの足跡を追うように、後に鄭潔や彭帥、張帥といった選手たちも独立独歩の道を選んだ。

 中国テニスの在り様を変え、批判を物ともせず世界に飛び出し、時には道化を演じることで、周囲との壁を取り除いてきた中国テニス界の革命家。6年前に“単独で飛び立った”彼女が飛翔したその後には、中国テニス選手の躍進と市場拡大という、巨大な群れが続いている。

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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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