素質、性格、環境がそろい開花した才能 「錦織圭――頂上への序章」前編

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18歳でツアー初優勝

08年にはナダルから1セットを奪い、一躍脚光を浴びた 【Getty Images】

 この20年、テニスはパワーとプレッシャーの世界と言われてきた。90年代に入ってからの最大の変化は市場の拡大だ。冷戦構造の崩壊により、それまでアマチュアリズムの壁に閉ざされていた旧社会主義国がプロツアーに加わり、EU拡大路線に乗って南米の若者がスペインを足がかりに参入してきた。華麗なサーブ・アンド・ボレーからクレー育ちのパワープレーへの移行、そして競争激化と市場拡大に伴ってコンピューター・ランキングとの非情な戦いが始まった。

 選手の寿命は長くない。肉体の酷使には限界がある。故障とどう付き合うか――個人プレーのテニスがチーム戦のレベルへと引き上げられ、錦織もこの激流の渦中でアップダウンを経験してきた。

 錦織のツアー初優勝のニュースが飛び込んだのは08年2月の米国西海岸、デルレイビーチだった。世界ランク244位で18歳だった錦織は、予選から勝ち上がると、決勝でジェームズ・ブレイク(米国)を倒し、ツアー初タイトルを手にした。さらに6月にはラファエル・ナダル(スペイン)から1セットを奪い、一気に脚光を浴びた。

故障の連続に追い込まれたことも……

 しかしその後、12年の楽天オープンで2度目の優勝をつかむまでの4年間は、ケガとの悪戦苦闘の連続だった。最初のグランドスラム出場だった08年ウィンブルドンは腹筋を痛めて途中棄権。翌09年は右ひじ痛でシーズン後半はコートを離れ、夏に手術を受けた。

 これにより、ランキングは898位まで下降。10年には再上昇するが、全米オープンでは太もも、翌11年は腰痛と連続リタイア。12年には左腹斜筋の肉離れがあり、13年の全豪オープンは左ひざを故障した。今年も3月のマイアミでは左足付け根の故障で準決勝を欠場し、バルセロナ大会ではナダルを追い詰めながら股関節を痛めて途中棄権。ウィンブルドン後には右足親指にできたのう胞の除去手術……。

 どこもかしこも、あれもこれも。昨年夏には、「どうしていいか分からない」ともらす状況にまで追い込まれた。
 しかし、錦織のマネジメントを担当するIMGが、デビュー当時から繰り返し言ってきたことがある。

「ケイはこの先15年、世界のトップで活躍する選手だ」

 その意味するところは、性急に結果を求める日本国内のムードへのけん制だ。急激な成功は喜ばしい一方、未熟な心身に試合数の増加、過密日程という負担を強いることになる。かといって、一般人のように治療に専念して限られた現役時間を費やすことはできない……われわれには見えないところで、錦織にもチームにも厳しい戦いが続いた。

 こうした重苦しい時間の流れの中で、マイケル・チャンの招へいが決まる。“レジェンド”という精神的支え、チャンが現役時代に実証した体力トレーニングの経験の重みが求められた。そして、その成果はすぐに表れた。

<後編に続く(9月27日掲載予定)>

(文:武田薫)

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