求道者・坪井智哉の尽きせぬ情熱、“クビ”の危機感の中で歩んだ野球人生

週刊ベースボールONLINE

1年目でいきなり打率3割2分7厘をマーク。イチローを彷彿とさせる振り子打法で人気を集めた坪井が8月15日、自身のブログで引退を表明した 【写真=BBM】

 野球への情熱は、あのイチロー(ヤンキース)も一目置くほどだった。愚直なまでに野球道を歩んだプロ生活。阪神、日本ハムなどで活躍した坪井智哉。その情熱は海をも越えたが、2014年夏、ついにユニホームを脱ぐ決断を下した。全力でバットを振り続けた男の野球人生を振り返る。

クビの危機感と戦った17年間

97年ドラフト4位で阪神に入団した坪井(後列右から2人目)。引退までの17年間、「いつクビになるか分からない」という危機感の中、プレーを続けた 【写真=BBM】

 涙は見せなかった。「素晴らしい、最高の野球人生でした。後悔もありません」という言葉にもウソはないだろう。ただ、その野球人生は紆余(うよ)曲折、最後は壮絶ともいえる環境と闘い、ユニホームを脱いだ。

 8月18日、神戸市内のホテルで坪井智哉の引退会見が行われた。PL学園高―青山学院大―東芝と野球界のエリートコースを歩み、1997年ドラフト4位で阪神に入団。独特の振り子打法で1年目から首位打者争いに参戦すると、最終的に打率3割2分7厘(リーグ3位)を記録した。これは2リーグ分立以降の新人最高打率。新人王こそ中日・川上憲伸に譲ったものの、連盟特別表彰を受けた。
 はた目には順調に見えたプロ人生のスタートだったが、本人には違う思いがあったようだ。

「社会人から入ったので、1、2年ダメならすぐクビになるという危機感の中で野球をやっていました。10打席ヒットがないと、試合から外される、ファームに行かされる、クビになるっていう感覚。1年目のシーズンが終わったときは、疲労感しかありませんでした」

 阪神が注目度の高い球団だったことも影響しただろう。10打席無安打など、他球団では記事にもならない。しかし、坪井が量産したヒットも勝利につながらなかったから、少し打てなくなると、ファンやメディアの標的にされたのだ。03年に移籍した日本ハムでは罵声を浴びることもなくなり、かえって物足りなさを感じたというから不思議なものである。

 ただ、「いつクビになるか分からない」という危機感は、引退までの17年間、ずっと抱いていたという。だから、人の何倍も練習した。

「量に関しては人よりもやってきたつもりです。でも、打つことが好きだったので、自分を追い込んでいる感覚は全くありませんでした。つらいと思ったことは一度もないです」

「嫌いなものも食べる」徹底管理した私生活

 私生活も徹底管理した。例えば、食生活。
「大好きなものが体にすごく悪かったり、大嫌いなものが体にめちゃめちゃ良かったり。栄養士の先生に教えてもらいながら嫌々食べたこともあります。妻と“三人四脚”でやってきて、今の自分があると思っているので、そのことに関しては胸を張りたい」

 坪井は続けて、「これからは嫌いなものは一切、食べないでしょうし、体に悪いものでもどんどん食べてやると思っています」と言って笑わせた。阪神時代には絶対に聞けなかった冗談(本音?)である。

殻を破るきっかけを作った新庄剛志

 阪神時代の坪井は、メディアの人間を寄せ付けない空気を出していた。
「僕は弱い人間なので、活字になったモノを目にしてしまうと、人より落ち込み度が高いと思う。自分を守るために本音は言いませんでした」

 殻を破れたのは日本ハム移籍2年目からだ。きっかけを作ってくれたのは、阪神でチームメートだった新庄剛志。ご存じ、日本球界きってのエンターテイナーである。
「自分の殻に閉じこもって、ただ野球をやっているだけじゃダメだって、いつも言われていましたし、球団も“ファンサービス・ファースト”というチームカラーでしたからね」

 新庄とともに“かぶりもの”をして球場を沸かせたこともある。ファンサービスだけでなく、新天地でもレギュラーの座をつかむと、移籍初年度には3割3分の自己最高打率をマークした。しかし、その後は度重なるケガに泣かされ、06年オフに1度目の戦力外通告。引退会見では「何回受けても戦力外はつらい。その中でも1回目の戦力外が一番しんどかった」と振り返った。

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