求道者・坪井智哉の尽きせぬ情熱、“クビ”の危機感の中で歩んだ野球人生
同級生イチローが後押しした米国行き
03年に移籍した日本ハムでは2度の戦力外を受け、10年に移籍したオリックスでは1年限りで戦力外となった 【写真=BBM】
その時点で37歳。引退しても不思議ではない年齢だが、坪井は現役にこだわった。「ただ単純に野球が好きだったから」、米国へ渡り、独立リーグでプレーを続けた。このとき、家族以外で背中を押してくれたのが同級生のイチローだった。
坪井はイチローのことを、「野球選手の中で一番影響を受けた人物」と言う。だから、引退を決意したときも真っ先に報告した。
「尊敬もしていましたし、あこがれもありました。何より人間として大好きなので、顔を見て伝えたかった。ニューヨークに会いに行って、家に招いてもらいました。3〜4時間ずっとしゃべっていましたね。イチローは黙って聞いてくれていました。独立リーグの環境の悪さや、僕の扱いにびっくりしながら。(引退については)『そこまで覚悟しているなら』ってことでしたね」
イチローが驚いた環境の悪さ、扱いの悪さとは……。
引退の一番の理由は「技術不足」
12年からは米独立リーグに所属。今年はランカスターでプレーした((c)URP) 【写真=BBM】
「僕がいた独立リーグの1つ上のレベルが3Aで、その上にメジャーがある。1打席でもメジャーの打席に立ちたいと思ってやってきましたけども、たかが独立リーグでなかなか試合に出られない、登録を外される、監督に相手にされない、という自分に限界を感じました」
球団への不信感や監督との確執があったことも否めない。独立リーグでは球団が選手の住環境を整えてくれる。相部屋がほとんどだが、ホテルの部屋を球団が借りてくれたり、地元でホームステイ先をあっ旋してくれたり。しかし、なぜか坪井だけはどちらも用意してもらえなかった。
試合中に「今日はどこに泊まるんだろう?」という不安が頭をよぎる。自腹でホテルに泊まる坪井を見かねたチームメートが、自分のホストファミリーに頼んでくれ、ソファを提供してもらったこともあるが、そこは、その家の愛犬の寝床だった。
「デカイから僕の力ではどかせられないし、無理にどかそうとすると怒られるので、エサを食べている間に寝る、みたいな感じでした。40歳にして、犬と寝床を取り合う経験をさせてもらったことは、僕の大きな財産になると思います(笑)」
今でこそ笑って話せるが、当時は“ネタ”にもできなかった。野球さえまともにできれば良かったのだろうが、たびたび登録を外され、一塁ベースコーチに立って、若い選手のヘルメットを片付けることもあった。「米国まで来て、何してるんだろう?」と思ったのも無理はない。
「野球界に恩返しができるような仕事をしたい」
坪井には10歳になる息子がいる。「物心がつくまで野球を続けたい」と思っていた息子は、父の影響で野球が好きになり、一緒にキャッチボールができる年齢になった。坪井の父・新三郎も元プロ野球選手(元中日など)。親子3代……を周囲は期待してしまう。
今後のことは「白紙」だが、ただ1つ、決めていることがある。
「野球にここまで育てられてきたので、何か野球に携われる、野球界に恩返しができるような仕事をしていけたらと思っています」
いろいろな経験を積んだ坪井なら、きっと良い指導者になるだろう。「球団が必要としてくれないと成り立たない」と前置きした上で、自分が指導者になったときのイメージを語ってくれた。
「あるとしたら、ファームで若い選手に交じって汗をかきながら、『練習はウソつかんぞ』って言っているイメージですかね」
そう言ったときの坪井の顔は、“野球人”のそれだった。
(文=岡部充代)