厳しく、基本を守る名参謀が挑む最後の夏 「勝つ野球」教える横浜・小倉コーチ

大利実

誰よりも上を行く「勝つ野球を教える」能力

今夏限りでの退任を表明した小倉コーチ。70歳を迎えた今もダミ声を響かせて指導を続ける 【写真は共同】

 高校時代のチームメイトでもあり、現在は「監督」と「コーチ」という立場でコンビを組む横浜高校・渡辺元智監督の言葉に、小倉清一郎コーチのすべてが表現されている。

「小倉は特別な存在。勝つ野球を教えることに関しては、誰よりも上を行っている」

 小倉コーチが横浜、東京農業大、河合楽器を経て、高校野球の指導者に就いたのが1972年のこと。意外や意外、初任校は東海大一(静岡)、現在の東海大翔洋である。タテジマを身にまとい、コーチとして76年春・夏と甲子園に導いた。今は東海大相模(神奈川)と強烈なライバル関係にあるだけに、タテジマを着ていた小倉コーチの姿が想像できない。

コーチ退任が地元紙1面に

 コーチを5年務めたあと、渡辺監督の下で、横浜のコーチ(登録上は監督の時期もあった)を1年間務めたが、野球部内の問題に巻き込まれ自ら辞職。その後すぐに、「甲子園に行きたければ俺を雇え!」と、78年6月からはライバル校であった横浜商のコーチとなり、90年夏まで春夏8度の甲子園出場を果たした。
 そして、90年秋から母校・横浜に戻り、再びコンビ結成。98年、松坂大輔を擁しての春夏連覇、2006年センバツ優勝と、3度の日本一に貢献している。

 2人の役割分担は明確だ。ピッチャーのフォーム指導や精神面は渡辺監督、戦略・戦術面は小倉コーチが鍛え上げる。小倉コーチは10年3月まで部長としてベンチに入っていたが、学校の定年(65歳)を迎えたことで(※部長は基本的に学校の教職員に限られる)、同年4月からはコーチとして指導に関わっている。

 この最強コンビが、今夏限りで終わることが公となったのは、地元・神奈川新聞の5月19日付朝刊の報道だった。しかも、1面だ。一人の高校野球のコーチの話が、1面で取り上げられることだけ見ても、小倉コーチの存在感の大きさを知ることができる。

バント処理に見える驚異の指導

 ライバル校のひとつ、横浜商大・金沢哲男監督の小倉評はこうだ。
「基本に忠実な野球。勝つ確率を上げるための野球」

 渡辺監督の言葉とも共通する点が多い。では、「勝つ野球」とはどういうことなのだろうか。

 昨夏の神奈川大会、平塚学園との決勝戦で印象的なシーンがあった。2回表無死一、二塁のピンチで、ピッチャー前への送りバント。これをピッチャー伊藤将司が見事なフィールディングでさばき、1→5→4(一塁ベースカバー)のゲッツーを奪った。

 計算づくの守りだった。カウント2ボール2ストライクから投じたのはインコースのストレート。この直前に、ベンチの渡辺監督の姿がテレビにたまたま映し出されていたが、「インハイを攻めろ」とキャッチャーにジェスチャーで指示を出していた。

 小倉コーチの教えは、「バントの場面ではインハイにストレートを投げろ」。そして、バットヘッドの角度を見ながら、ピッチャーは打球方向を予測して、マウンドを下りる。
 インハイは、バッターにとって最もバントが難しく、角度をつけにくいコースといわれている。ここにストレートを投げれば、強いゴロがピッチャー前に飛んでくることが多い。 さらに、小倉コーチはこんな驚くことまで仕込んでいる。

「バントのときは、ピッチャーのステップを半歩狭くする。そうすれば、前にチャージしやすくなる」

 日頃、6歩半で投げているのであれば、6歩で投げる。実際、そこまで厳密ではないが、気持ちの上で狭くする意識を持っておくのだ。あえて、踏み出す足の状態を悪くするため、練習ではステップする場所にスコップで穴を掘り、チャージしづらい状況を作り出すこともある。

1/2ページ

著者プロフィール

1977年生まれ、横浜市出身。大学卒業後、スポーツライター事務所を経て独立。中学軟式野球、高校野球を中心に取材・執筆。著書に『高校野球界の監督がここまで明かす! 走塁技術の極意』『中学野球部の教科書』(カンゼン)、構成本に『仙台育英 日本一からの招待』(須江航著/カンゼン)などがある。現在ベースボール専門メディアFull-Count(https://full-count.jp/)で、神奈川の高校野球にまつわるコラムを随時執筆中。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント