リリーフの概念を変えてきた歴代の名投手、宮田から江夏、津田、佐々木と続く系譜

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印象深かった郭、津田の速球派リリーフ

郭源治は87年に星野仙一監督の下で抑えに転向し、4勝3敗26セーブで優勝に貢献。MVPを獲得した 【写真=BBM】

 その後は続々と両リーグに優秀なストッパーが誕生する。印象深いのは郭源治(中日)、津田恒美(広島)のような気迫を前面に出して打者に向かっていく速球派。郭はもともと先発として入団し、83年から4年連続で2ケタ勝利と結果も残していた。だが、抑えの切り札の牛島和彦が、落合博満との4対1トレードでロッテへ移ったことがきっかけで抑えに転向。闘争心むき出しのスタイルがマッチして、87年から2年連続で最優秀救援投手に輝く。88年の44セーブポイントは当時の日本記録だった。

 津田恒美は1年目に先発で11勝6敗で球団史上初の新人王獲得。しかし、2年目以降は血行障害などの故障に悩まされる。それでも86年にストッパーとして復活して4勝6敗22セーブ。鬼気迫るピッチングから「炎のストッパー」と呼ばれ、ファンに愛された。89年には最優秀救援投手に輝くが、その後は脳腫瘍の影響で満足な投球ができなくなり、91年に32歳の若さで亡くなった。

 鹿取義隆のようなサイドスローから多彩な変化球で打者を打ち取るようなタイプも現れた。王貞治監督時代の巨人で重宝された鹿取は西武移籍後に自身初の最多セーブをマークし、両リーグで中継ぎ、ストッパーとして活躍した数少ない選手だ。巨人では、角、サンチェの3人体制で抑えを任された年もあった。左腕でサイドスローの角は、抑えで活躍したあとは、左のワンポイントとしても貴重な働きを見せた。

 85年に日本一に輝いた阪神には、工藤一彦、福間納の中継ぎから中西清起、山本和行のストッパーにつなぐリレーで、先発陣のコマ不足を補い、優勝に多大な貢献をした。

「大魔神」佐々木らの登場で高評価の時代へ

大洋入団2年目からストッパーに指名された佐々木主浩。優勝した98年は開幕から24試合無失点で貢献した 【写真=BBM】

 90年代に入ると、2人、3人がセットで試合の終盤に短いイニングを任されて逃げ切りを図る、継投策が主流となる。さらに、巨人の長嶋茂雄監督が、「勝利の方程式」という言葉で岡田展和、橋本清から石毛博史につなぐ投手リレーを表現すると、継投策で勝利につなげるパターンを構築する流れがさらに加速する。その影響もあり、それまで地味な存在だった中継ぎ投手の活躍も高く評価されるようになった。96年には最優秀中継ぎのタイトルが誕生している。

 横浜が98年に成し遂げた38年ぶりの優勝も、リリーフ陣の活躍なしには果たせなかっただろう。「大魔神」佐々木主浩につなぐ継投策が確立され、島田直也、「ヒゲ魔神」の五十嵐英樹、「小魔神」の横山道哉と魔神たちの活躍が光った。

 佐々木は4年連続最優秀救援投手に輝き、メジャーでもストッパーとして活躍し、日米通算381セーブを記録している。佐々木と同時期には高津臣吾(ヤクルト)も日米で通算313セーブを記録した。このころ、パ・リーグでは赤堀元之が全盛時代で、佐々木、岩瀬仁紀(中日)に並ぶ最多タイとなる5度の最優秀救援投手に輝いている。

外国人投手最多となる通算177セーブのクルーン 【写真=BBM】

 翌99年は中日が韓国人も加わった強力なリリーフ陣で優勝する。落合英二、サムソン・リー、岩瀬仁紀、宣銅烈の4人だ。パ・リーグではダイエーが藤井将雄、吉田修司、篠原貴行からペドラザにつなぐ充実のリリーフ陣で優勝をさらった。ペドラザは先発要員として加入したが、抑えに転向して大活躍。2000年代に入ると、さらに多くのリリーフユニットが誕生し、阪神のJFK(ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)を筆頭に、横浜のクアトロK(木塚敦志、川村丈夫、加藤武治、クルーン)、ロッテのYFK(薮田安彦、藤田宗一、小林雅英)など、リリーフのユニットにニックネームが付けられた。ユニットの中に外国人が占める割合も少しずつ増えており、横浜と巨人で活躍したクルーンは、6シーズンで外国人投手最多の通算177セーブを積み上げた。

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