リリーフの概念を変えてきた歴代の名投手、宮田から江夏、津田、佐々木と続く系譜
60年代に現れた8時半と8時10分の男
リリーフで19勝を果たし、「8時半の男」として活躍した宮田征典 【写真=BBM】
プロ野球創成期は、リードした場面で投入される、リリーフ専門の投手はほとんどいなかった。ただ、スタルヒン(巨人ほか)や稲尾和久(西鉄)などの絶対的なエースが、先発で起用されない試合でもベンチに待機して、ロングリリーフを任されるケースは多かった。
1960年代に入り、リリーフ投手の概念が変わり始める。巨人に「8時半の男」こと宮田征典が登場したのは、大きな転機だった。65年当時の巨人投手陣は後半に打たれて逆転負けする試合が多く、川上哲治監督は最後まで逃げ切るためにフレッシュな投手を登板させる策を思いついた。そこで、心臓の欠陥により長いイニングを投げられないが、短いイニングならキレ味鋭い球を投げられる宮田に目をつけた。リリーフ専門で起用するとチームは連勝街道に乗り、1カ月ほどで4位から一気にトップへ上り詰めた。
坂東英二は先発時代に最高で12勝、リリーフ転向後は67年にキャリアハイの14勝をマークした 【写真=BBM】
宮田、板東よりも長いイニングを投げ、タフなリリーバーだったのは広島の龍憲一。62年から5年連続で55試合以上に登板し、65年にはリリーフ中心ながら、226イニングを投げ、18勝を挙げた。宮田より早いイニングからのロングリリーフが多いために、「8時10分の男」とも呼ばれた。セ・リーグではこの3人がリリーフの元祖と言える。同じころのパ・リーグでは、血行障害の影響で長いイニングを投げられなくなった南海の杉浦忠が抑えに回り、好成績を残している。
リリーフの概念を大きく変えた江夏の起用
肩痛、心臓の持病などの影響でリリーフに転向した江夏豊。南海での2年間が大きな転機になる 【写真=BBM】
佐藤の次に、野村監督によって抑えに抜てきされたのが江夏豊だ。それまであまり重要視されていなかったリリーフの概念を大きく変えた転換と言われている。「野球に革命を起こそう」の言葉で血行障害、心臓疾患に苦しむ江夏をその気にさせ、球界屈指のストッパーに育て上げた。江夏はまだ阪神に在籍していたころからリリーフ登板を経験しており、74年4月10日の広島戦(広島市民)で7回裏から登板して3イニングを無失点に抑え、プロ野球史上初のセーブを記録した。
広島に移り、79年に行われた近鉄との日本シリーズ第7戦で9回裏、無死満塁を切り抜けた伝説の投球、「江夏の21球」でストッパーの重要性が一気に認識されたと言える。広島では渡辺秀武、大野豊からつなぐ必勝リレーも完成した。先発時代は優勝経験がなかった江夏は日本ハムでも優勝に貢献。西武へ移籍後、84年5月3日の日本ハム戦(西武球場)で、史上初の全12球団からセーブを達成している。
リリーバーが多く出た76年
同年ドラフト1位で斉藤明夫が大洋に入団。1年目の77年から開幕1軍で8勝して新人王となり、78年から3年連続2ケタ勝利。だが、2年連続でリーグワーストの負け数を記録すると、81年に当時の抑えのエースだった遠藤一彦との配置転換で抑えに回る。これが大成功で、82年から2年連続で最多セーブを記録するなど、抑えに定着した。
3位で巨人に指名された角盈男は1年、社会人でプレーを続け、78年に入団。1年目こそ先発でも6試合に登板するが、2年目以降はオーバースローからサイドスローに変更して、リリーフ専門になる。80年にリーグ最多の56試合に登板、81年は20セーブで最優秀救援投手に輝く。