ホンジュラスの忘れてはいけない負の歴史 ナショナリズムを反映したサッカーと戦争
わずか4日間で2000人以上の戦死者……
“サッカー戦争”でホンジュラスとエルサルバドルは大きな傷を負った。現在は“健全なライバル関係”を築いており、サポーターは純粋にプレーを見て熱狂する 【写真:Action Images/アフロ】
7月に入ると両国の空軍機による爆撃の応酬や陸軍同士の交戦が相次ぎ、14日にエルサルバドル軍の侵攻開始によって遂に本格開戦。サッカーの試合が引き金となり、本物の戦争が始まってしまった。地上戦を優勢に進めたエルサルバドル軍がホンジュラスの首都テグシガルパを攻略する可能性もあったが、米州機構(OAS)などの仲介によって18日22時に停戦が成立した。戦争状態にあったのはわずか4日間だったため「100時間戦争」という呼ばれ方もされるが、戦死者は両国合わせて2000人以上と見積もられており、ホンジュラス、エルサルバドルともに大きな傷を負った。
ちなみに、W杯予選のプレーオフは両国の国交が断絶した6月27日、中立地メキシコのエスタディオ・アステカで、メインスタンドとバックスタンドに両国のファンを完全分断して収容する形で実施された。この試合ではエルサルバドルが3−2と勝利して決勝へと駒を進め、ハイチとの決勝でもプレーオフの末に相手を下し、W杯初出場を成し遂げている。
両国の代表チームは同年の北中米カリブ海サッカー連盟(CONCACAF)チャンピオンシップこそ失格扱いとなったが、すぐに国際舞台に復帰。80年11月23日、CONCACAFチャンピオンシップの中米地区予選で約11年ぶりの直接対決が行われ、この時はエルサルバドルが2−1で勝利。1週間後の試合ではホンジュラスが2−0で雪辱を果たした。翌81年11月に行われた同大会の決勝ラウンドでは、ホンジュラスが1位、エルサルバドルが2位となった。この大会がW杯予選を兼ねていたため、両者は82年スペイン大会でW杯同時出場を成し遂げている。
現在は“健全なライバル関係”を築く
98年のW杯フランス大会以降、本大会出場国が24から32に増え、北中米カリブ海地区には3〜3.5枠が与えられることになった。それ以前は米国、メキシコが出場権を独占することが多かったものの、その他の国にもチャンスが広がり、ホンジュラスはこの絶好の機会をうまくつかんだと言えるだろう。元々、身体能力が高くてフィジカルの強い選手が多く、カルロス・パボンやダビド・スアソのように欧州で活躍する選手も何人かいたが、近年はイングランドやスコットランドに進出する選手が増え、彼らのフィジカルを生かしたプレースタイルがより洗練されるようになり、代表チームのレベルも一気に上がった。
かつては「ホンジュラス=サッカー戦争」だったが、そのイメージは払拭(ふっしょく)されつつある。負の歴史は決して忘れてはいけないが、W杯の常連になりつつあるホンジュラスの未来は明るいはずだ。