“南米一おとなしい”チリのサッカー事情 元U−17代表トレーナー佐保豊氏が語る
U−17やU−20代表、名門コロコロなどでトレーナーを務めた経験を持つ佐保氏にチリのサッカー事情を語ってもらった 【キム・ミョンウ】
“サ・サ”コンビが国民的なスターだった時代
それが“ロハス事件”です。1989年のイタリアW杯予選で、チリが本大会出場を懸けてブラジルと戦っていたときのことです。チリのゴール裏の観客席からゴールマウス付近に発煙筒が投げられたのですが、その瞬間、当時キャプテンのGKロベルト・ロハスが頭を抱えて倒れ込みました。それが足元に落ちたにも関わらず……。慌ててトレーナーが走っていったのですが、カミソリを使い自ら出血させていたのです。結局、その試合はブラジルが1−0のまま打ち切りになりました。
劣勢に立たされたチリが絶対にW杯に出場したいがため、無効試合を狙ったわけですが、のちにゴール裏のカメラマンが撮った写真によって不正が暴かれ、90年イタリアW杯は出場を逃し、94年の米国W杯予選参加も剥奪されました。そのあと、悲願のW杯出場を果たしたのが98年フランス大会だったということです。
ご存じの通り、サモラーノはチリ代表のエースストライカー。彼はW杯に出られない間、92年から96年はスペインの名門レアル・マドリーでプレーしていたので、テレビでは彼が出る試合ばかりが放送されていました。一方のサラスも98年から2003年まではセリエAのラツィオとユベントスでプレーしていたので、それこそ知らない人はいなかったと思います。
転換期となったビエルサ監督の就任
そのうえでチリのサッカーについて語りたいと思うのですが、日本人にはチリのサッカーは正直、なじみがないと思います。私がチリにいたころ、かの国のサッカーのイメージは、オーソドックスな古い南米のサッカーをやり続けていたという印象がありました。常にブラジル、アルゼンチンがトップ2でいて、そこから固く出てくるのがウルグアイ、パラグアイ、コロンビアといったような強豪国。チリはW杯出場を懸けた戦いになると、5番手を争うところにいるかいないかという位置づけ。一時はボリビアやエクアドルが台頭したりもしましたから、W杯に出場するのはすごく難しいわけです。サラスとサモラーノの絶対的なエースがいたときは良かったのですが、彼らのピークが過ぎ、前回大会の南アフリカ大会に出場するまで、チームを再建するのはかなり大変だったと思います。
私がチリ代表のサッカーの転換期だと思うのは、アルゼンチン人のマルセロ・ビエルサが07年に代表監督に就任してからです。そして選手たちも欧州で活躍していることもあって、徐々にそのスタイルは現代サッカーに変わりつつあったと思います。
ただ、欧州に進出する選手が増えたのは最近のことで、私がいたころは欧州でプレーできる選手は一握りでした。仮に欧州に行ったとしても長続きせずに帰ってくることも多かったですね。当時、チリ選手の移籍市場は、ある程度実力のある選手はお金のあるメキシコでプレーするのが主流でした。一部、トップの選手はブラジルやアルゼンチンに行く流れもあります。チリから直接、欧州へ移籍するというケースはほとんどなかったですね。
サモラーノは国内からスイス(FCザンクト・ガレン)、スペイン(セビージャ、レアル・マドリー)、イタリア(インテル)と渡り歩いて成功を手にしたわけですが、当時は彼のようなケースは珍しかったと言えます。
サラスのケースはいい例で、国内で活躍したあとアルゼンチン(リーベル・プレート)に行き、そのあとイタリア(ラツィオ、ユベントス)で成功を収めました。なので、チリの選手たちは若い時期に欧州に行くか、チリ国内で実績を残してアルゼンチンやメキシコから欧州への道を開くという流れが今でも王道でしょう。