“南米一おとなしい”チリのサッカー事情 元U−17代表トレーナー佐保豊氏が語る

キム・ミョンウ

U−17やU−20代表、名門コロコロなどでトレーナーを務めた経験を持つ佐保氏にチリのサッカー事情を語ってもらった 【キム・ミョンウ】

 ワールドカップ(W杯)フランス大会が開催された1998年から単身でチリに渡り、約3年間、チリのU−17とU−20代表、名門クラブチームのコロコロなどでトレーナーを務めた一人の日本人がいる。それが佐保豊氏だ。現在は日本アイスホッケー連盟理事・男子日本代表チームヘッドトレーナー、日本オリンピック委員会(JOC)医科学専任スタッフとして活動する一方、NPO法人スポーツセーフティージャパン代表理事(東京都渋谷区)も務める。名古屋グランパスエイトやフットサル日本代表(2012年W杯)でトレーナーを務めた経歴を持ち、サッカーに精通した人物でもある。そんな佐保氏にチリのサッカー事情について聞いた。

“サ・サ”コンビが国民的なスターだった時代

 私がチリに渡ったのはちょうどフランスW杯が開催された1998年です。その前は長野冬季五輪の男子アイスホッケー日本代表のトレーナーの仕事をしていました。当時はチリ代表がフランスW杯でベスト16入りしたこともそうですが、その原動力となったマルセロ・サラス、イバン・サモラーノの“サ・サ”コンビが国民的なスターだった時代。とにかく当時、国内のサッカー熱はすごかったのを記憶しています。そうしたサッカー熱が高まりを見せたのは、チリに悲しい過去の歴史があったからです。

 それが“ロハス事件”です。1989年のイタリアW杯予選で、チリが本大会出場を懸けてブラジルと戦っていたときのことです。チリのゴール裏の観客席からゴールマウス付近に発煙筒が投げられたのですが、その瞬間、当時キャプテンのGKロベルト・ロハスが頭を抱えて倒れ込みました。それが足元に落ちたにも関わらず……。慌ててトレーナーが走っていったのですが、カミソリを使い自ら出血させていたのです。結局、その試合はブラジルが1−0のまま打ち切りになりました。

 劣勢に立たされたチリが絶対にW杯に出場したいがため、無効試合を狙ったわけですが、のちにゴール裏のカメラマンが撮った写真によって不正が暴かれ、90年イタリアW杯は出場を逃し、94年の米国W杯予選参加も剥奪されました。そのあと、悲願のW杯出場を果たしたのが98年フランス大会だったということです。

 ご存じの通り、サモラーノはチリ代表のエースストライカー。彼はW杯に出られない間、92年から96年はスペインの名門レアル・マドリーでプレーしていたので、テレビでは彼が出る試合ばかりが放送されていました。一方のサラスも98年から2003年まではセリエAのラツィオとユベントスでプレーしていたので、それこそ知らない人はいなかったと思います。

転換期となったビエルサ監督の就任

 少し話が戻りますが、米国の大学留学中に知り合ったチリの友人の紹介がきっかけで、98年にチリ代表のU−17でトレーナーとして仕事をすることになりました。ちょうど02年の日韓W杯も控えていたので、監督やチームスタッフが興味を持ってもらえていたのも幸いしました。そのあと99年にプロクラブチームのコロコロに所属し、シーズン途中にパレスティーノで過ごしながら、チリのサッカーを肌で体感してきました。

 そのうえでチリのサッカーについて語りたいと思うのですが、日本人にはチリのサッカーは正直、なじみがないと思います。私がチリにいたころ、かの国のサッカーのイメージは、オーソドックスな古い南米のサッカーをやり続けていたという印象がありました。常にブラジル、アルゼンチンがトップ2でいて、そこから固く出てくるのがウルグアイ、パラグアイ、コロンビアといったような強豪国。チリはW杯出場を懸けた戦いになると、5番手を争うところにいるかいないかという位置づけ。一時はボリビアやエクアドルが台頭したりもしましたから、W杯に出場するのはすごく難しいわけです。サラスとサモラーノの絶対的なエースがいたときは良かったのですが、彼らのピークが過ぎ、前回大会の南アフリカ大会に出場するまで、チームを再建するのはかなり大変だったと思います。

 私がチリ代表のサッカーの転換期だと思うのは、アルゼンチン人のマルセロ・ビエルサが07年に代表監督に就任してからです。そして選手たちも欧州で活躍していることもあって、徐々にそのスタイルは現代サッカーに変わりつつあったと思います。

 ただ、欧州に進出する選手が増えたのは最近のことで、私がいたころは欧州でプレーできる選手は一握りでした。仮に欧州に行ったとしても長続きせずに帰ってくることも多かったですね。当時、チリ選手の移籍市場は、ある程度実力のある選手はお金のあるメキシコでプレーするのが主流でした。一部、トップの選手はブラジルやアルゼンチンに行く流れもあります。チリから直接、欧州へ移籍するというケースはほとんどなかったですね。
 サモラーノは国内からスイス(FCザンクト・ガレン)、スペイン(セビージャ、レアル・マドリー)、イタリア(インテル)と渡り歩いて成功を手にしたわけですが、当時は彼のようなケースは珍しかったと言えます。

 サラスのケースはいい例で、国内で活躍したあとアルゼンチン(リーベル・プレート)に行き、そのあとイタリア(ラツィオ、ユベントス)で成功を収めました。なので、チリの選手たちは若い時期に欧州に行くか、チリ国内で実績を残してアルゼンチンやメキシコから欧州への道を開くという流れが今でも王道でしょう。

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著者プロフィール

1977年、大阪府生まれの在日コリアン3世。フリーライター。朝鮮大学校外国語学部卒。朝鮮新報社記者時代に幅広い分野のスポーツ取材をこなす。その後、ライターとして活動を開始し、主に韓国、北朝鮮のサッカー、コリアン選手らを取材。南アフリカW杯前には平壌に入り、代表チームや関係者らを取材した。2011年からゴルフ取材も開始。イ・ボミら韓国人選手と親交があり、韓国ゴルフ事情に精通している。

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