元日本代表とアマチュアが共存するクラブ=J2・J3漫遊記 SC相模原<前篇>

宇都宮徹壱

コーチらが常駐でないため、監督にかかる負担は大

相模原を率いる木村監督。コーチ陣はパートタイムであるため、監督にかかる負担は大きい 【宇都宮徹壱】

 先述のとおり、相模原は「尋常ならざるスピード感」でJクラブとなった。設立当初は「神奈川に5つもJクラブができて大丈夫か」とか「近隣にある町田ゼルビアと食い合いにならないのか」といった危惧や疑念を抱いた者は少なくなかったようだ。それでも、代表である望月の知名度と人脈に加え、政令指定都市となった相模原のホームタウンとしてのポテンシャル、そして行政やスポンサーやファンの後押しもあり、わずか6年でここまでたどり着くことができた。もっとも「Jクラブ」である相模原が、純然たる「プロクラブ」かと問われれば、いささかの疑問符を付けざるをえないのも事実だ。それを現場レベルで最も痛感しているのが、監督の木村であろう。

「うちはフィジカルコーチもGKコーチも常駐ではないんです。ですので、ほとんどの練習では、僕ひとりで選手27人全員と向き合っていくしかない。プロの選手も、働いている選手も、ピッチ上で100パーセントプレーするという条件はまったく同じです。ただ、練習が終わって様子がおかしいときは、仕事が原因の場合もある。ですので、選手ひとりひとりのコンディションを、僕がしっかり把握する必要があるんですが、なにぶんひとりしかいないのでね」

 相模原の監督に就任したのは2年前の12年。それまでは神奈川大学で指導していた。実はクラブ発足当時は、大学との掛け持ちでさまざまな後方支援に当たってきたという。

「なにしろ何もないところからのスタートだったので、県協会への登録とか選手集めとか、いろいろお手伝いをさせていただきました。1年目なんて、練習に6人しか集まらない(笑)。練習場も、水たまりのあるような公園で、ボール回しとか対人とかフィットネスをやっていました。みんな仕事を持っていたので、練習時間は夜の7時半から9時半まで。練習場の確保も大変でしたが、開幕戦まで11人そろえられるかどうか、そっちのほうが気がかりでしたね。GK経験者もなかなか見つからなくて、最初のシーズンは控えGKなしで戦っていましたよ。2年目以降は、セレクションでそこそこいい選手が集まるようになって、僕も大学での指導に専念できるようになりましたね」

 相模原は現在、ギオンスタジアムのサブグラウンド、ノジマフットボールパーク、そして綾瀬スポーツ公園でトレーニングしている。専用グラウンドがないのは辛いところだが、それでも「始まった頃に比べれば、ずい分と良くなりましたよ」と木村監督は笑う。とはいえ、真の意味でのプロクラブになるためには、まだまだ道半ばであることもまた、身を持って認識している。

「僕もいろいろなクラブやカテゴリーでプレーしていましたが、甲府時代(97−99年)も練習環境は厳しいものがありましたね。専用グラウンドなんてなかったから、与えられた環境でどれだけ効率的に練習するか、という発想が自然に身につくようになりました。相模原では働いている選手が多いので、午前9時から2時間で効率よく練習することを心がけています。でも本当は、選手もスタッフもサッカーだけで生活できるような環境づくりを考えるべきだと思います。今後、本気でさらに上を目指すのであればね」

工場で働きながらプレーするJ3リーガー

今季から相模原に加入した大森。J−22戦では、左サイドから果敢なオーバーラップを見せていた 【宇都宮徹壱】

 実際に働いている選手たちは、クラブやJ3リーグの現状について、どう思っているのだろう。話を聞いたのは23歳の左サイドバック、大森啓生である。大森は宮城県石巻市の出身。3年前の東日本大震災で実家は被災し、両親は今も仮設住宅で暮らしているという。関東学院大学卒業後、当時JFLだったブラウブリッツ秋田に入団するも、けがのため出場機会が激減し、わずか1年で退団。昨年暮れのセレクションを経て、今季より相模原でプレーすることになった。

「相模原というチームは学生時代から知っていました。個人のレベルも高かったし、攻守の切り替えがスピーディーで、良いチームだなという印象でしたね。実は上を目指すJFLクラブからもオファーをいただいていたんです。でもさらに上を目指す意味で、J3というカテゴリーにこだわりがあったので、アマチュアで契約しました」

 大森は現在、午前の練習が終わると14時から18時まで、相模原のスポンサーであるKYB株式会社で部品が入った箱の仕分け作業に従事している。それが終わって帰宅すると、地元石巻の特産品を通信販売する仕事が待っている。慣れるまで時間がかかったが、「今は充実している」のだそうだ。身分はアマチュアながら、W杯出場経験のある元日本代表と同じ立場でプレーできているのだから、当然といえば当然だろう。

 大森のストーリーは、時に美談めいて聞こえるかもしれない。しかし、地域リーグではなく、J3リーグでプレーする選手の現状であることは留意すべきだ。これは決して相模原に限った話ではなく、他のJ3クラブでも大森のように働きながらプレーを続ける選手はいくらでもいる。確かに、J3でプレーする選手の現状は決して楽ではない。ただ、大森の前向きな言葉からは、ある種の救いが感じられた。

「僕は震災の影響もあって、一時はサッカーを辞めて地元に帰ろうと思ったこともありました。今は家族や仲間の思いを背負っていますから、ちょっとやそっとでは心は折れないつもりです(笑)。監督からも『サッカー一本で生活するように頑張れ』と言われていますし、僕自身もプレーヤーとしてもっと上を目指したい。今は身分的にはセミプロかもしれないけれど、少なくともピッチ上ではJリーガーには絶対に負けないつもりです」

<後篇につづく。文中敬称略>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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