王者・広島が手に入れた新たな武器。ACL、そしてJリーグ3連覇へ挑む

中野和也

悲しみを力に変えて

ゼロックス杯で共にゴールを挙げて広島を勝利に導いた19歳コンビの浅野(左)と野津田 【写真は共同】

 昨日まで元気だった方が、今日、お亡くなりになった。
 そんなドラマのような出来事が起こったのは2月10日、宮崎キャンプ初日のことだった。

 その日、澤山文枝さんの訃報を受け取った時、森保一監督はどうしても信じられなかった。明らかに、気持ちが動揺していた。
「もし、練習前に選手に知らせれば、自分と同じように絶対に動揺して練習に集中できないだろう」
 そう判断した指揮官は、気持ちをぐっとこらえて、言葉をのみ込んで、選手を指導する。だが、練習中に何度もこみ上げる感情を抑えることは、決して簡単ではなかった。

 澤山文枝さんとは、どういう方だったのか。そのことを全て語るには、とても紙幅が足りない。宇都宮徹壱さんのレポート(※関連リンク「戦力の好循環でリベンジを果たした広島」参照)でも触れておられるので、ここではこれ以上書くのはよそう。ただ、一つだけ言えるのは、彼女はサンフレッチェ広島というクラブに「勤務している」というより「溢れ出す愛情を注いでいる」人だった。だからこそ、今プレーしている選手だけでなく、移籍・引退した選手やスタッフからも愛され、慕われていた。告別式の会場を埋め尽くしたというたくさんの花が、その事実を証明している。

 大切な人の訃報を受けたチームは、悲しみをパワーに変えた。トレーニングでの集中力は半端なく、全員が激しく戦い抜いた。わずか4週間しか準備期間がない中、練習は必然的に密度が濃いものとなるし、量そのものも増える。だが、選手たちは頭も身体も極限まで使う練習に歯を食いしばって耐え、トレーニングから球際に激しくぶつかり合い、身体のケアも惜しみなかった。

急成長した19歳コンビ

 その結果、若者たちが飛躍的に成長した。その象徴が、野津田岳人と浅野拓磨、2人の19歳である。野津田は宮崎キャンプでの練習試合で4試合に出場し7得点。浅野は得点こそ2つに留まったが、ビッグチャンスの創造回数は誰よりも多かった。

 このコンビで、象徴的な得点シーンがある。最後の練習試合となったホンダFC戦、1点ビハインドの状況で野津田はカミソリのようなスルーパスを前線に送る。その先には、抜群のスピードで動き出していた浅野のランニングがあった。ペナルティーエリアに深く侵入し、GKをかわしてゲット。普段は互いを「ライバル」として意識し合っている2人ではあるが、一方で「自分のパスで拓磨のゴールをアシストしたい」(野津田)「自分の動きは必ず、岳人は見ていてくれる」(浅野)と語り合うなど、コンビネーションのパートナーとして2人は信頼し合っている。その機能性が高まってきたことを感じた宮崎キャンプだった。

 富士ゼロックス・スーパーカップでの浅野のゴールは、そのキャンプで見せたコンビプレーの再現のようなシーンだった。違うのは、浅野がドリブルではなくワンタッチでシュートを放ったことと、角度がゴールほぼ正面だったことくらい。
「拓磨が走り出したのは見えたし、自分がいい場所にパスを送れば、あいつのスピードなら絶対に振り切れる」

 確信を持ってスルーパスを出した野津田の想いを受け止めて決めた浅野は「ガクがパスを出してくれると、信じていた」。宮崎で数百人を前にして決めたコンビプレーを、4万1273人の前で再現してみせた2人のティーンエージャーの大胆さは、その53日前の天皇杯決勝で見せた「何もできずに立ち尽くす」姿とは大きな変化を見せていた。
「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」
『三国志』にある中国の猛将・呂蒙の言葉を、改めて反すうしたくなる。

 ただ、広島が横浜F・マリノスに圧勝したのは、2人の若者だけの力ではない。連覇を果たしたチームが熟成した戦術をさらに進化させようと取り組み、その効用が現れたことが完勝劇につながったのだ。

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著者プロフィール

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルートで各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。近著に『戦う、勝つ、生きる 4年で3度のJ制覇。サンフレッチェ広島、奇跡の真相』(ソル・メディア)

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