カーリング司令塔・小笠原歩の強さ 母のたくましさと強烈な責任感と…
休養宣言から8年……“有言実行の女”
最終順位は5位。吉田(右)ら若いメンバーを交えながら、長野大会に並ぶ最高成績を残した 【写真:中西祐介/アフロスポーツ】
ソチ行きを決めた後、小笠原は「(日本の)五輪5大会連続出場も切らせられないし、自分1人ではなくチームや、いろんな人の思いとか人生を背負っているという責任を感じていました」と振り返っている。
そこではたと、トリノ五輪後に船山弓枝とともに行った休養宣言が思い出される。
チーム青森を離れる会見の場で、小笠原は「私たちは引退という言葉は使いません。また、いつかこの舞台に戻ってきたい」と語っていた。あれから8年の時を経て、その通りのことをやってのけたばかりか、7位だったトリノを上回るパフォーマンスを見せた。
そんな小笠原の精神力はどこから来るのか。小笠原の自己分析はこうだ。
「私、よく“有言実行の女”と言われちゃうんですけど、たまたまなんですよ。確かに、自分の言ったことには責任を持たなければいけないと思うけど。そうして、自分で決めた道を全うしたいと思ってやってきて、その中で周りの人にも恵まれて、幸運にもこういう結果(ソチ五輪出場)がついてきていると思うんです」
こうも言った。「私は道を切り開こうなんて思って青森に行ったわけでもないし、母親となって復帰したわけでもまったくない。全然パイオニアという意識はないんです。ただカーリングをしたくて一線に戻ったというだけなんです」
スキップという役割が素質を開花させた
小笠原の元来のポジションはセカンドで、初めて出場したソルトレークシティ五輪でもそうだったし、その後に青森に渡った当時もセカンドのはずだった。スキップを担うようになったのは、チーム青森でトリノ五輪を目指す過程での出来事だった。
「チームのフジ・ミキコーチからスキップをやってみないかと何回か打診されたのですが、最初はずっと『そんな責任のあることはできない』と断っていました。大変なことも見てきたし、セカンドに愛着もあって、誰かを助けることの達成感が好きだったので。でも、トリノを目指して青森に行くと覚悟を決めたのは私自身で、そこからメンバーが集まってきてくれたので、私には責任があるなと思ったんです」
この決断が人生の岐路だった。「スキップになって、人間的に相当変わりましたね。メンタルが強くないとスキップは難しい。最初はすごくネガティブだったし、メンタルがすごく弱いと言われていたので、きつかったですね。カナダでのメンタルトレーニングもかなりやりました。よくやってきたと思います」
眠っていた責任感の強さが、役割の大きさによって開花したということなのかもしれない。ソチでの活躍はその証明だった。
ソチでの活躍は5位以上の価値
それに中国戦の勝利が貴重だった。単にバンクーバー五輪銅メダルの強豪に勝ったというだけではない。五輪の10枚の切符は世界選手権の成績で得られるポイントがもとになっており、世界選手権に出場するためには、その予選であるアジア・パシフィック選手権で2位以内に入らなければならない。アジア・太平洋地区での中国の独走を許さないことは、今後、日本が五輪の舞台を目指すために欠かせないことなのだ。そんな手土産を持ち帰った北海道銀行の、そして日本カーリング界の次の展開が楽しみになった。
<了>