チーム変革の中で色あせた『磐田カラー』=クラブ史上初の2部降格が決まった要因
降格の予兆も……世代交代の不具合が下地
第31節鳥栖戦で敗れ、J2降格が決まった磐田。その予兆は数年前から見えていた…… 【写真は共同】
今季はここまで3勝しかしておらず、18クラブでの1シーズン制に移行した2005年以来、最低の勝利数となった10年の湘南ベルマーレの3勝にも並ぶ致命的数字だ。
とはいえ、降格した前年まで優勝争いを演じていたG大阪とはやや違う。磐田はここ何年も下位争いを演じ、『近い将来には』と予感させる2ケタの年間順位を繰り返していただけに、『やっぱり』という声が少なくないのも事実だった。
低迷は2005年あたりから始まった。この年は年間成績こそ6位だったが、磐田一筋で選手生活を終えるかと思われていた元日本代表MF藤田俊哉が名古屋に移籍して周囲を驚かせた。
衝撃を持って受け止められたこの移籍をきっかけに、1990年代後半に一時代を築いた黄金期のメンバーが徐々に流出していく。2年後の07年には、MFの福西崇史、服部年宏、そして名波浩までもが去り、クラブは大きな転換期を迎えた。
クラブの方針もあった。それは平均年齢が上がった黄金期のメンバーから若手への世代交代である。ところがそう簡単なことではなかった。クラブの思い通りには若手が成長できず、10年にはナビスコカップで頂点に立ったものの、08年にはJ2との入れ替え戦でようやく残留を果たすなど、その後も低迷は続いた。そんな下地があっての今回のJ2降格劇だった。
『デスゴール』騒動、代表での不振……心身ともに疲弊した前田
今季ここまで9点と不振にあえぐ前田。それには『デスゴール』騒動など、精神的にきつい理由もあったようだ 【写真は共同】
「多少のリスクはあってもより攻撃的に」と、右サイドからの鋭いクロスボールで定評のあるDF駒野友一をMFにポジションさせたのは、これまで以上の得点力を期待してのものだった。
ところがシーズン前の鹿児島キャンプで行われた練習試合では、鋭いクロスが激減。監督は中央からの突破など、クロスだけに頼らない多彩な攻撃パターンも模索しており、あまり問題視してはいなかった。
しかしシーズン開幕後も鋭いクロスは封印されたままで、ホットラインと呼ばれたFW前田遼一へのチャンスボールは徐々に減少。前年以上のゴール量産を期待されたエースは、ピッチ上で徐々に孤立していった。
2トップを組むFW金園英学との連携も、決して順調ではなかった。金園が「前田さんが相手のDFを引きつけてくれるので、自分のチャンスが増えた」と喜ぶ一方で、前田の動きは徐々に変化していく。
ある解説者は「鋭くゴール前に走りこむ以前の前田とは少し違う」と、その変化には敏感だった。ときにはサイドのスペースに回りこみ、そこからチャンスボールを供給するなど、後輩の金園を生かすプレーで貢献を続けた。
ところが、チャンスが増えた後輩は不運に苦しんだ。1試合で何度も、シュートがゴールポストやクロスバーを直撃するなど、ツキのなさが徐々にチームの不振を招いていく。そして開幕から7戦連続未勝利など白星から遠ざかると、周囲は前田への期待を高めていく。
しかし、前田も苦しんでいた。開幕前からわき上がった『デスゴール』騒動だった。前田がシーズン最初にゴールを決めた相手が、07年から過去6年連続でJ2に降格している。今年はどこがその運命をたどるのかと、一時はJリーグで最大の話題になったほどだ。しかし、ちまたの子供たちまでもが話題にする騒動に、相手チームよりも苦しんでいたのは前田自身だったと周囲は口をそろえる。「騒ぐなというのは無理だが、対戦する相手にとっては深刻すぎる内容だから、そのクラブのことを考えてか当時の前田は落ち込むような表情が多かった」とクラブ関係者は振り返る。
さらに追い討ちをかけたのが日本代表での戦いだった。ワールドカップ・ブラジル大会アジア最終予選の序盤こそ順調に勝ち点を重ねていた日本代表だったが、その勢いは徐々に失速。矛先はFW陣に向けられ、その中心にいたのが前田だ。「6月に本戦出場を決めたころには、かわいそうなほど心身ともにボロボロだった」とクラブ関係者からは同情の声も出た。
降格が決まった第31節終了時でエース前田のゴール数は9。4年連続2ケタのゴールを続けてきたエースには物足りない数字だが、今季のチーム不振と低迷、そして降格の理由を問われると、「自分の力不足です」と繰り返してきた。
そんなエースに「精神面が弱い」とか「そんなことだから日本代表から漏れるんだ」と周辺からは厳しい指摘もある。しかし、そうならざるを得ない状況下で、手立てができなかったクラブやチームスタッフにも大きな責任があるはずだ。