新・侍Jに注入、小久保新監督の不屈精神とリーダーシップ

田尻耕太郎

やるか、やらないか――

不屈のリーダーシップを持つ小久保新監督(右)、世界一奪還へ新生・侍ジャパンをどのように育て上げていくのか 【写真は共同】

「人生、チャレンジすることに意義があり、できるかできないかではなくてやるか、やらないか」

 いかにも“らしい”言葉だと思った。
 4年後、2017年WBCでの世界一奪還へ。11月8日から行われる台湾代表との親善試合(10日まで3試合、いずれも台北)で新生・侍ジャパンが再出発する。
 新たな船出の舵を取るのが小久保裕紀新監督だ。昨年まで現役選手。指導者経験のない中での重職に「最初に話を頂いた時は、正直、迷いがあった」と打ち明けるが、人生の師と仰ぐソフトバンクの王貞治球団会長に背中を押され、冒頭の言葉のごとく腹をくくった。

王会長との出会いが野球人生を変えた

 ダイエー、巨人、ソフトバンクで常に中心打者として活躍。史上14人しかいない400本塁打以上での2000安打達成者だ。また、4度のリーグ優勝と2度の日本一(ダイエーで不出場の2003年は除く)を経験しており、勝つ味を知るのは指導者としても大きな魅力である。

 やるか、やらないか――輝かしい実績を築き上げたのは不断の努力の賜物だ。青山学院大3年でバルセロナ五輪に出場。将来を嘱望されたスラッガーとしてプロ入りしたが、ルーキーイヤーは打率2割1分5厘、6本塁打と苦しんだ。そのオフ、ダイエーにやって来たのが王監督だった。その出会いが小久保を変えた。

「練習では楽をするな」
「背中がバキバキ鳴るくらいバットを振れ」
「昨日より1mmでも遠くに飛ばせ」

 1995年、2年目で本塁打王に輝く。2004年の巨人では、あの長嶋茂雄でさえクリアできなかったシーズン40発を巨人の右打者として史上初めて達成した。そして通算2000安打は40歳8か月での到達。「若い頃からヒット狙いの軽打ばかりしていたら2000安打は無理だったでしょう。スイングスピードが低下して、おそらく35歳あたりで(野球選手として)急降下したはず」と振り返った。

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著者プロフィール

 1978年8月18日生まれ。熊本県出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。2002年卒業と同時に、オフィシャル球団誌『月刊ホークス』の編集記者に。2004年8月独立。その後もホークスを中心に九州・福岡を拠点に活動し、『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)『週刊現代』(講談社)『スポルティーバ』(集英社)などのメディア媒体に寄稿するほか、福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルメディアともライター契約している。2011年に川崎宗則選手のホークス時代の軌跡をつづった『チェ スト〜Kawasaki Style Best』を出版。また、毎年1月には多くのプロ野球選手、ソフトボールの上野由岐子投手、格闘家、ゴルファーらが参加する自主トレのサポートをライフワークで行っている。

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