15年かけて手に入れた念願の練習施設=奇跡の甲府再建・海野一幸会長 第6回
念願のクラブハウスと練習場が完成
アカデミーの拠点となった「八田河川敷グラウンド」 【写真:ヴァンフォーレ甲府】
総工費は1億2200万円。スポーツ振興くじ(toto)からの助成のほか、韮崎市、山梨県、甲府市から支援を受け、自己資金も加え夢がかなった。竣工式のあいさつに立った海野は「サッカーのまち・韮崎にプロチームの拠点があって良かったな、当時の関係者は本当に良いことをしたなと末代まで思われるように、我々はチームづくり、クラブづくりを進めていきます」と深い謝意と恩返しの決意を口にした。
「考えてみると、いろいろ遠回りをしたもんですよ。ここまでが長かった」と海野は述懐する。2001年の社長就任当初、チームが置かれた劣悪な環境にあぜんとしたという。特定の練習場を持たないため、韮崎市、甲府市などの公営グラウンドやテルモ、NTTなど企業の施設を借りて、チームは転々とした。明日、どこで練習するかが、ぎりぎりまで決まらない日もあった。グラウンドを確保できたとしても、シャワーも更衣室もないところがほとんどで、選手たちは濡れたタオルで体をぬぐい、プロだというのに自分の車の中や、青空のもとで着替えた。
プロなのにグラウンドの確保に奔走する日々
「GKだけは芝生で練習したいというので、小瀬スポーツ公園(甲府市)の中にある芝生の広場でやったこともあった。もちろんゴールはないんですけどね。本当はやってはいけない場所なので、見つかったら逃げようということにして」
雨が降ると使わせてもらえないグラウンドが多い。鶴田は天気が崩れそうになると、前の晩から気になって仕方がなかった。「そういうときは朝4時、5時に目が覚めてしまって、雨が降っていると、朝から電話を掛けまくって使える施設を探した」
どうしても施設が見つからず、海野に相談し、その母校の一宮西小や一宮中学(ともに笛吹市)を使わせてもらったこともある。プロが河川敷の空き地や小中学校で練習するしかなかったというのだから、何とも哀れだ。当然、プロの練習場のように整備された施設はほとんどなく、グラウンドはでこぼこだった。それでも選手たちはその環境を受け入れ、元日本代表FW・小倉隆史のようなスター選手でも不平は口にしなかったという。
練習場はほとんど毎日、変わる。その日になってから、鶴田が電話の連絡網を使って練習場所を選手に伝えることもあった。携帯電話の普及していなかった時代のことだから、今のように一斉メールで伝えることなどできなかった。プロだからといって、優先的にグラウンドを借りられるわけではない。まだ、クラブの認知度が低く、その価値が理解されていなかったからだろう。クラブの顔はまったく利かなかった。快く貸してもらうため、鶴田は日ごろから関係者のもとに足を運んで、いい関係をつくろうとした。
拠点が定まっていない悲しさで、毎日、ボールをはじめ、アイスボックス、マッサージ用のベッドなどの用具を軽トラックで運ぶ必要があった。練習着は2着ずつ選手に渡しておいて、洗濯は自分でしてもらった。ウェアはメーカーから提供されたものだが、サイズによっては足りないものがあり、ある強豪チームのおさがりだとしか思えなかったという。鶴田は「あんなに劣悪な練習環境だったのに、よくJ2入りが承認されたものだと思いますよ」と笑う。
まず先にジュニアユースの練習施設を確保
まず進めたのは、ジュニアユースの練習施設の確保だった。海野の社長就任当初、ジュニアユースは甲府城西高や甲府東高など高校のグラウンドを借りて練習を重ねていた。高校のサッカー部の練習が終わるのを待たなければならず、練習開始は午後8時をゆうに過ぎた。
ある日、海野は釜無川(かまなしがわ)の河川敷(南アルプス市)に土のグラウンドがあり、地元の人がたまにサッカーをしているのに目を付けた。国土交通省から南アルプス市が借り、さらに山梨県サッカー協会が借りている土地だった。ここを練習場にできないかと思ったが、防球ネットと照明施設が必要になる。国交省の出先事務所に相談すると、大雨で冠水したときに流される恐れがあるため、普通のネットや照明灯はつけられないという。そこで防球ネットは巻き上げ式、照明灯は寝かせられるものとするという条件で整備の許可をもらった。3000万円の整備費はクラブが負担し、アカデミー(育成組織)の練習場を確保することができた。後に人工芝も張り、すぐ隣の遊休地にクラブハウスも建てている。