ミランが本田ではなくカカを選んだ理由=移籍に難色を示したCSKAの思惑

神尾光臣

ミランは移籍成立に楽観的だった

CSKA残留が決まった本田。今夏でのミラン移籍はかなわなかった 【Getty Images】

 9月2日、ミランオフィスの前にあるトゥラーティ通りに交通規制が敷かれた。カカにあいさつをしようと、大勢のミラニスタが押し寄せたからだ。それに対し、終止うれしそうに反応するカカ。サインを終えた直後にはオフィスの窓から身を乗り出し、ファンにユニホーム姿を見せて、最終的にはそのユニホームもファンにプレゼントした。

「うれしいし、幸せだし、感動している。サンシーロ(ミランの本拠地)でプレーできるのが待ち遠しい。僕は家に帰るんだ」とカカは喜びを語った。チームの経営事情と(父親が望んだ)高年俸によりレアル・マドリーへの道をたどることになったが、彼自身の気持ちは常にミランにあり、末端のスタッフにも何かのおりにつけSMS(ショートメッセージサービス)を送っていたほどだった。彼自身がミランを愛し、またミランから愛されていたことをよく分かっていた。

 移籍市場の最終日にこうしたドラマが繰り広げられた一方、CSKAモスクワの本田圭佑については結局何も起こらなかった。アドリアーノ・ガッリアーニ副会長が「残り契約期間から算出しても妥当な額」と設定した300万ユーロ(約4億円)に、成功報酬ボーナスなどを加える形でオファーを増額し交渉にはあたったが、8月30日の夜にCSKAのエフゲニー・ギネル会長から『ニェット(No)』を出された時点で終了したのだ。

 難航を極めた移籍交渉。移籍金が安いと言われ、ゲオルギ・ミラノフのケガを理由に引き延ばされ、さらにはバカンスで会長が不在という理由で中断。プレーオフの登録メンバーに本田のための枠をわざわざ空けても交渉がままならない。復帰の見通しが立たないジャンパオロ・パッツィーニの代役として、1200万ユーロ(約15億円)の移籍金を払ってユベントスFWアレッサンドロ・マトリを獲得することが明るみに出た時、「もうミランは本田の夏移籍をあきらめ、1月まで待つのではないか」とメディアは報じた。

 しかし29日、ケビン=プリンス・ボアテングのシャルケ04移籍が突如成立。その日の夜、シルビオ・ベルルスコーニ会長にガッリアーニ副会長、そしてマッシミリアーノ・アッレグリ監督を交えて3頭会談を行い、「本田の獲得を目指し、無理ならばダメ元でカカ」という補強方針を固めた。ミランに密着しメルカートを取材していたスカイ・イタリアのベッペ・ディ・ステーファノ記者は「この時点でミランの関係者は、CSKAとの交渉成立に相当楽観的な見通しを抱いていた」と語る。

CSKA会長が移籍金よりも優先したもの

 キーマンは渉外を担当するウンベルト・ガンディーニ運営部長。CSKAにも人脈を持っていた彼は硬直した両クラブの関係を軟化させるところまで仲裁を図り、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)の抽選会とクラブの役員会が行われるモンテカルロで、8月29日にクラブ間交渉を行っていたのだ。CSKAの反応もそこまで強硬なものではなく、「検討するので会長からの返事を待ってほしい。8月30日の午後8時までには結論を出す」とミラン側へ返答した。しかしモスクワから届いたギネル会長の返答は「本田は出せない」というものだった。

 この期に及んで、ギネルはなぜ難色を示したのか。先にロシアのメディアを通し、ミランが代理人を介さずに「ガッリアーニが直接話に来るべきだ」とアピールしていたが、交渉の最終段階になるまでトップが出てこないのは段取りとして普通。むしろ本来、移籍市場を担当する立場にないガンディーニを関与させてでも、代理人を介さずクラブ間で交渉したいというCSKA側の意思をミランはくみ取っていたともいえる。

 CSKA側のスポンサーが本田の放出に難色を示したとの情報もあるが、最終的なところはやはりギネル自身の意思のようだ。「彼は本田をCLに参戦させることを望んだ。移籍金よりも、参戦し勝利を挙げることで得られるロイヤリティーの方を優先した。つまり問題は金だった」とディ・ステーファノ記者は語る。

 トップ下を獲得しなければならず、しかし移籍期間終了まで時間はなく、切羽詰まった状態。そんな相手の境遇を見越して、ギネルは移籍金のさらなる吊り上げを図ったという見方もできる。だがミランは交渉を続行することはせず、むしろ「非常に難しすぎる(ガッリアーニ)」はずのカカ獲得へあっさり照準を切り替えた。「最初から本命はカカで、3頭会談の結論もそれだったのではないか」と、あるミラン番の地元記者は語る。事実、カカは「2週間前からミランに帰れそうな気はしていた」と打診の存在をにおわせ、彼が再び背負うことになる22番も、一度はリカルド・サポナーラが付けることになっていたものが1カ月前に8番に変更されたという経緯がある。

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著者プロフィール

1973年9月28日、福岡県生まれ。東京外国語大学外国語イタリア語学科卒。97年の留学中にイタリアサッカーの熱狂に巻き込まれ、その後ミラノで就職先を見つけるも頭の中は常にカルチョという生活を送り、2003年から本格的に取材活動を開始。現在はミラノ近郊のサロンノを拠点とし、セリエA、欧州サッカーをウオッチする。『Footballista』『超ワールドサッカー』『週刊サッカーダイジェスト』等に執筆・寄稿。まれに地元メディアからも仕事を請負い、08年5月にはカターニア地元紙『ラ・シチリア』の依頼でU−23日本代表のトゥーロン合宿を取材した。

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