セレソンに進むべき道を示したスコラーリ=W杯優勝候補に急浮上したブラジル

奇跡を起こす男が代表に歓喜をもたらす

就任後、再び歓喜をもたらしたスコラーリ(中央)。ブラジルを見事に立て直した 【写真:ロイター/アフロ】

「CBF(ブラジルフットボール協会)は勇気を出してルイス・フェリペ・スコラーリとの契約を決断した。AFA(アルゼンチンフットボール協会)は一向にカルロス・ビアンチを呼ぼうとはしないのにね」

 コンフェデレーションズカップ(コンフェデ杯)決勝でブラジルは、2008年、12年の欧州選手権(ユーロ)を連覇し、現ワールドカップ(W杯)王者でもあるスペインに対し、3−0の圧勝劇を演じた。その直後、興奮冷めやらぬミックスゾーンで選手たちを待っていた際、あるアルゼンチン人記者がそう嘆いていた。

 ブラジル代表監督のスコラーリは奇跡を起こす男だ。“フェリポン”の愛称で知られる彼は、ブラジルが史上初めてW杯出場権を逃すという危機に瀕(ひん)していた01年に代表監督に就任した。

 ほどなく迎えたベネズエラとの最終節で辛くも本大会出場を決めた彼は、ロベルト・カルロス、リバウド、エメルソンら主力3人らとともに会見を行い、現体制の継続を公に求めなければ自身は続投しないと、選手たちに対して明言した。その結果がどうなったかは、02年に行われたW杯日韓大会の歓喜が物語っている。

2人の指導者に白羽の矢を立てたCBF

 イタリア系の苗字を持つスコラーリは、アルゼンチンとの国境に近いブラジル南部に生まれ育ったガウーショ(南部出身の主として牧畜に従事していた欧州移民と先住民そのほかとの混血住民)である。

 彼はクラブでも代表でも、率いたチームはすべて勝たせてきた真の勝者だ。W杯ではポルトガル代表監督として臨んだ06年ドイツ大会の準決勝でフランスに敗れるまで、2大会をまたいで12連勝という大記録を樹立している。

 02年日韓大会の歓喜から10年が経過した昨年、CBFは再び低迷の危機に瀕(ひん)していた。マノ・メネーゼス前監督率いるセレソンはチームとして機能せず、プレーは不安定で、ファンの支持も得られていなかった。

 並行し、再び世界の頂点に立つ絶好の機会である自国開催のW杯は刻一刻と迫っていた。そこで変化の必要性を感じたCBFは、経験豊富で勝つための手段を知りつくし、あらゆるプレッシャーに耐え得る2人の指導者に白羽の矢を立てた。それがスコラーリ、そして1994年W杯米国大会の優勝監督であるカルロス・アルベルト・パレイラ現CBFスポーツディレクターだった。

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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