戦術の分岐点で振り返る日本代表の歩み=チームの礎はいかにして形成されたのか
すでにそこにあった日本スタイル
ザッケローニ監督(左)就任から2年半。これまでさまざまな戦術的アプローチを試みて、現チームの礎を築いてきた 【Getty Images】
ザッケローニが監督に就任して最初の試合は10年10月のアルゼンチン戦。戦術的なベースは、この初陣ですでにできていた。
先発は現在のベストメンバーとほとんど変わらない。65分に前田遼一と交代した森本貴幸が先発だったのと、右のセンターバックが吉田麻也ではなく栗原勇蔵だっただけ。リオネル・メッシを含むベストメンバーのアルゼンチンに1−0で勝利している。
さすがイタリアの名将、ほんの数日でチームを作り上げた手腕は驚異的……と言いたいところだが、そうではない。ザッケローニが指揮を執る前から、すでにチームはでき上がっていたのだ。
10年W杯・南アフリカ大会を戦った岡田武史前監督の戦術を引き継いだわけではない。南アフリカで主力だった松井大輔、大久保嘉人、中澤佑二、田中マルクス闘莉王はおらず、守備を固めてロングボールを多用した戦法もまったく踏襲(とうしゅう)していない。
南アフリカW杯では直前に守備重視の戦術に変更している。アルゼンチン戦の日本は、中村俊輔を軸としていたW杯前のチームに少し似ているが、やはりそれとも違っていた。
では、いつ戦術的なベースができたのか。
南アフリカW杯後、アルゼンチン戦までの間に日本は9月に2試合をこなしている。パラグアイ戦とグアテマラ戦だ。この2試合で指揮を執ったのは原博実技術委員長で、ザッケローニ就任までの暫定監督だった。いわば“つなぎ”なので、原“監督”は自分の色を出していない。選手をポジションにつけて普段どおりのプレーをさせた。
ザッケローニが尊重し、ベースに定めたのはこのときの日本である。
これまでの代表監督とザッケローニの違いがここにある。ザッケローニ以前の代表監督は、それぞれ自分の色を明確に出し、真っ白なカンバスに絵を描くようにそれぞれの日本代表を作り上げようとしてきた。ところが、ザッケローニは“すでにある日本”を尊重した。
そのときあった日本は、誰が作り上げたものでもなく、選手たちが“普通に”プレーした日本スタイルだった。
いままでにはなかった監督と選手の関係
ザッケローニ監督は就任時にすでにあったチームと戦術を尊重した。しかし、何もしなかったわけではない。むしろ戦術的な指示の細かさは、02年のフィリップ・トルシエ監督をほうふつとさせるものがあった。日本のプレースタイルを尊重しつつも、アイデアを加えていき、その効果が表れたのがカタールでのアジアカップだった。
準決勝の韓国戦、36分の前田のゴールは典型的なパターンといえる。香川真司、本田圭佑が守備網のすき間でパスを受けて守備のバランスを崩し、左のスペースに進出した長友佑都からのクロスを前田、岡崎慎司が狙う。左で崩して右で決めるのは日本の得意な形である。
ボール支配力の高さで「アジアのバルセロナ」といわしめた日本だが、ボールを保持するだけではゴールは生まれない。とくに相手に引かれたときにパスワークで崩すには、相手を動かしてスペースを作る必要がある。相手を動かすには、まずこちらが動く。
香川、岡崎のサイドアタッカーが、相手のサイドバック(SB)とボランチの間のあいまいな位置どりで守備のバランスを崩しにかかるのだが、こうした動きはトレーニングで繰り返されたパターン化されたものだ。ただ、どう使うかは選手の判断に委ねられている。この監督と選手の関係は、それまでの代表チームにはなかったものといえる。
オーストラリアとの決勝で、ボランチへのポジションチェンジを命じられた今野泰幸が拒否し、監督もそれを受け入れて左SBへのスライドに変更している。1つポジションを上げた長友のアシストから李忠成が決勝点をゲットした。従来の監督と選手の関係では、ありえなかったと思う。