オシムが挑むボスニアサッカーの改革=今も変わらぬ日本への思い
日本の試合を見る時、いつも心はベンチにある
日本を離れて3年が経ったが、日本人の活躍は追わずにはいられないと語るオシム氏 【杉山孝】
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、おとぎ話の中に迷い込んだかのような錯覚に陥った。その美しい旧市街で笑顔とともに話しかけてきたのは、土産物屋の老婦人だった。この国における日本との最大のつながりは、サッカーである。自分たちの英雄が代表チームを率いた国から旅人が来たなら、声をかけたくなるのも当然だろう。イビチャ・オシムの存在は、今もボスニアの人々の誇りであるようだ。
日本を離れて3年が経った。だが、オシム氏の思いは、今も日本サッカーとともにある。今秋、その名伯楽にサラエボで話をうかがう機会を得た。
部屋に入ってきたオシム氏の手に、離日前には握られていた杖はなかった。190センチを超える長身が、ゆっくりとではあるが確かな足取りで部屋へと入ってきた。イスに腰を下ろすとまず、近くにあった2006年のヤマザキナビスコカップ決勝のプログラムに手を伸ばす。ゆっくりとページを繰る横顔に、目に写っている誌面で鹿島アントラーズとジェフユナイテッド千葉の対戦を展望する解説者が、今は川崎フロンターレの監督へと肩書きを変えたことを説明する。軽くうなずいた名将は「ソウマはどうした? フロンターレの監督だっただろう?」と返してきた。
サムライたちの活躍は、今も追わずにはいられないのだという。問わず語りに、日本代表の欧州遠征について話し始めた。試合を見る時、いつも心はベンチにある。そう話した。多くの日本人選手がヨーロッパでプレーするようになった今、「テレビでチェックするという仕事が増えてしまった」とうれしそうに苦笑していた。千葉を率いていたころよりも随分細くなった印象で、口数も減ったように感じられたが、サッカーの話が進むにつれて、目はあのころと変わらない光を強く放ち始めた。
「フォルクスワーゲンの株を買っておきなさい」
「フォルクスワーゲンの株を買っておきなさい。将来、役に立つかもしれない」
苦笑いした長谷部はその1週間後、出場機会をつかんだ。本当にクラブの大スポンサーの株を買ったかどうかは分からない。
「おいしいケバブでもどうですか?」光栄なことに、インタビューが終わると取材陣4人を食事に誘っていただいた。「彼らに知らない料理を紹介してあげたい。箸はないけれどね」というオシム氏に、同席していたアシマ夫人は「ひょっとしたら皆さんは、箸に飽きているかもしれないわ」と微笑んだ。
店員の気配りが隅々まで届く、こじんまりとしつつ寛大な店内でも、日本サッカーについての話は止まらなかった。サンフレッチェ広島とベガルタ仙台が首位を争っている状況を、「日本のサッカーのために良いことだ」と喜んだ。古巣の凋落(ちょうらく)を嘆きもした。
多大な時間と労力を費した協会の改革
同協会は11年、FIFA(国際サッカー連盟)とUEFA(欧州サッカー連盟)から無期限の資格停止処分を受けている。長く続いたボスニア人、クロアチア人、セルビア人による民族紛争が95年に終結した同国では、首相も3民族から3人が選出されているように、民族間の安定のためにあらゆる政府機関で各民族代表者の要職就任が現在も続いている。サッカー界においても同様で、3民族を代表して3人の協会会長が存在していたが、FIFAの規約では会長職に就くのは1人とされており、問題視したFIFAとUEFAから処分を科された。そこでオシム氏が正常化委員会のトップに就き、会長を1人にまとめるための道筋を示したことで、決定の約2カ月後に処分は解かれた。
だが、正常ではなかったのは会長職だけではなかったため、その後オシム氏は多大な時間と労力をサッカー協会の改革に費やす事態となった。協会は多額の赤字にまみれていたとオシム氏が振り返る。
「クラブなどからさまざまな人間がやって来て、どんどん金を持っていってしまったんだ」
赤字額は、実に500万ユーロ(約5億円)に上ったという。予算規模の小さな同国サッカー協会においては非常に高額だ。だが正常化委員長は12年後半までにあらゆる不正と、不正を行う人間を排除したと話す。「何とかして、赤字はきれいになくなった」。まだ重い肩書は外れていなかったが、穏やかな表情でスープを口に運んだ。