室伏広治「五輪精神が凝縮した聖火台、新国立競技場に残して」=被災地の子どもたちと聖火台を磨く

高樹ミナ

妹の由佳さん(左端)や被災地の子どもたちと東京・国立競技場の聖火台を磨くイベントに参加した室伏広治 【共同】

 秋雨の降る11月17日、ロンドン五輪・陸上男子ハンマー投げ銅メダリストの室伏広治(ミズノ)は東京・国立霞ヶ丘競技場の頂(いただき)にいた。グラウンドからの高さ約30メートル、ビルの7〜8階に相当する聖火台(高さ、直径とも2・1メートル、重さ2・6トン)がある場所だ。

 室伏は毎年秋になると、この場所に立つ。製作者の遺族と聖火台を磨くためだ。
 室伏が聖火台磨きに加わったのは2009年のことだった。1964年に開催された東京五輪の翌年から製作者とその家族が毎年聖火台を磨いていること、その背景には知られざる製作秘話があることを知り、自ら参加を申し出たのだ。

 そして迎えた4度目の秋。これまでごく少人数で行われてきた内輪の行事は今年、室伏の他にも有名アスリートが加わり、新聞・テレビ各社の報道陣が詰め掛けるにぎやかなイベントになっていた。

命を懸けた職人の知られざる製作秘話

 国立競技場の最上段に鎮座する聖火台は64年東京五輪の開催を見据え、58年の第3回アジア競技大会に合わせて完成した。製作を手掛けたのは、かつて「鋳物(いもの)の街」として栄えた埼玉・川口の鈴木萬之助・文吾親子(ともに他界)。父・萬之助は地元の名工として知られ、息子の文吾もその血を受け継いだ腕利きの鋳物師(いもじ=鋳物職人)だった。

 当時、提示された製作条件について遺族に尋ねると、「製作期間は3カ月、製作費も20万円(現在の貨幣価値で約110万円)だった」という。国の威信をかけたプロジェクトにしては厳しい条件のように思われるが、他にも東京五輪に関わった人々の多くが採算度外視で働いたとされる。

 萬之助さんも、「川口の名にかけて断るわけにはいかない。お国の仕事ができるのは名誉なこと」とこれを快諾。その日から夜を徹しての作業が始まった。
 ところが作業を始めて2カ月後、「湯入れ」と呼ばれる大事な工程で失敗してしまう。1400度にも達する灼熱の鋳鉄を鋳型に流し込む際、鋳鉄が噴出する大事故に見舞われたのだ。ショックを受けた萬之助さんはそれまでの心労もたたって床に伏し、8日後に他界した。

 猶予はわずか1カ月。周囲の落胆をよそに「作らなければ川口の恥、日本の恥」と立ち上がったのは息子の文吾さんだった。志半ばでこの世を去った父の無念を晴らすべく、必死に作業に向かった文吾さんは「これで失敗したら腹を切る」と家族に告げていたそうだ。その覚悟を知る家族もまた文吾さんの作業の邪魔になってはいけないと、萬之助さんの葬儀の日時を告げないという苦渋の決断を下した。
 鈴木家の背負ったプレッシャーがいかに大きなものだったか、当時の日本がどんな時代だったか。そのことがうかがえるエピソードである。

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著者プロフィール

スポーツライター。千葉県出身。 アナウンサーからライターに転身。競馬、F1、プロ野球を経て、00年シドニー、04年アテネ、08年北京、10年バンクーバー冬季、16年リオ大会を取材。「16年東京五輪・パラリンピック招致委員会」在籍の経験も生かし、五輪・パラリンピックの意義と魅力を伝える。五輪競技は主に卓球、パラ競技は車いすテニス、陸上(主に義足種目)、トライアスロン等をカバー。執筆活動のほかTV、ラジオ、講演、シンポジウム等にも出演する。最新刊『転んでも、大丈夫』(臼井二美男著/ポプラ社)監修他。

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