現状を受け止められる北島の強い心に期待=ハギトモコラム

萩原智子

ハイレベルな決勝レース

五輪は、まだ終わっていない。きっと北島は答えを見つけ出すだろう 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 2種目3連覇を目指していた日本のエース北島康介選手(日本コカ・コーラ)。現地時間29日に行われた100メートル平泳ぎ決勝のレースでは、世界新記録が樹立されるなど、全体的にハイレベルなレースとなった。

 彼はロンドン入り直前の公開取材で「100メートル平泳ぎの優勝タイムラインは、58秒5前後」と予想していた。実際のレースでは、南アフリカのキャメロン・ファンデルバーグ選手が、58秒46の世界新記録を樹立。北島選手自身が口にしていた優勝タイム通りになった。もちろん彼も、この記録に対して日々、努力を重ね、準備を進めていたが、思ったよりも記録が伸びなかった。

 絶対的なスピードを必要とする100メートルは、泳ぎのキレがないと、スピードに乗ることができずに焦ってしまい、泳ぎのバランスが崩れてしまうケースが多々ある。北島選手も決勝レース後、「泳ぎに迷いが生じ、苦しかった」と口にしていた。泳ぎのキレは、疲労感が大きく関係していると思われる。疲労が抜け切れていないと、泳ぎにキレがなく、本来の北島選手の大きな伸びのある泳ぎができない。

 2種目2連覇をしている北島選手は、絶対的な王者として、ロンドン五輪を迎えた。その絶対的王者であっても、ピークを合わせられないときもある。“水の怪物”マイケル・フェルプス選手(米国)も同様だ。選手は、機械でもロボットでもない。生身の人間なのだ。調子がいいときもあれば、悪いときもある。

1ミリの誤差で泳ぎが崩れてしまう繊細な種目

 加えて、競泳4種目の中でも、平泳ぎは1ミリでも手の掻きやキックの位置、水面に対しての体の浮き具合がズレるだけで、泳ぎが崩れてしまう繊細な種目だ。そんな繊細、かつピーキングが難しいとされる平泳ぎで、2002年のアジア大会200メートル平泳ぎで、自身初の世界記録(当時)を樹立してから、約10年の間、常に平泳ぎの世界トップで居続ける北島選手。

 もちろん、彼の水泳人生は、すべてが順調とは言えなかった。過去には、試合直前での体調不良からの入院、平泳ぎの選手の宿命である膝痛や肘痛との戦い、五輪金メダルを獲得した後の燃え尽き症候群、レース中に起こった肉離れなど、数多くの壁にぶつかってきた。そのたびに、彼を励まし、支え、本気にさせたのは、世界各国の打倒北島に燃えるライバルたち、そして五輪の存在だった。

 絶対的王者の北島選手に対し、各国の選手たちは、彼に合同練習を申し入れ、彼の強さの秘密を探ることもあった。気さくな彼は、嫌な顔をせず彼らを受け入れ、「共に強くなり、平泳ぎのレベルを上げていこう」と言った。今大会の平泳ぎがハイレベルな争いになったのも、北島選手の存在が大きい。

 泳ぎの技術や記録だけではなく、どんなときも勝負から逃げず、言い訳をしない強さ、誰にでも気さくに接する優しさ、アドバイスを受け入れる素直さ。1人のアスリート、そして人間としての在り方においても、海外選手たちから尊敬され、彼らの励みとなっている。

五輪は、まだ終わっていない

 私も北島選手に助けられた一人だ。同じロンドン五輪を目指す中、私は昨年、婦人科系の病気になり、入院、手術をした。同じ時期、世界選手権の国内代表選考会が開催されており、200メートル平泳ぎのレース中、彼は太ももの肉離れを起こし、痛みに耐えながら泳ぎ切った。その翌日、彼は痛みがある中、足を引きずりながら私の病室までお見舞いに来てくれたのだ。私は驚きとともに、彼の心の優しさを感じた。「もう泳がないの? 泳ごうよ!」と私の水泳に対する迷いや不安を払拭(ふっしょく)してくれたのも、彼の言葉だった。それは大きなエネルギーになり、再び水へ戻ろうと思わせてくれた。

 自分自身が苦しいとき、人に対して優しくできる人は、本当に強い。今大会、100メートルのレース後、世界新記録を樹立したファンデルバーグ選手に対し、「彼とレースできたことを誇りに思う」と話した。ライバルを認め、たたえるとともに、自分自身の弱さを認めていた。自分自身の弱さを認めることは、とても勇気のいる作業である。しかしレース後、現状を冷静に受け止められる強い心を北島選手は持っている。

 燃え尽き症候群を乗り越え、再びたどり着いた五輪の舞台。もがき、苦しみ、迷いながらも、きっと彼は答えを見つけ出すだろう。昨年の世界選手権でも100メートルで、納得する泳ぎ、レースができなかった。しかし、その後に行われた200メートル平泳ぎでは、気持ちと泳ぎを切り替え、トップ争いを繰り広げ、表彰台へ上った。
 彼には、平泳ぎの王者としての底力、意地がある。五輪は、まだ終わっていない。始まったばかりだ。2日後から始まる200メートル平泳ぎ、彼は打倒・北島を目指す世界各国の選手たちとともに、ハイレベルなレースを繰り広げるだろう。

<了>
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著者プロフィール

2000年シドニー五輪200メートル背泳ぎ4位入賞。「ハギトモ」の愛称で親しまれ、現在でも4×100メートルフリーリレー、100メートル個人メドレー短水路の日本記録を保持しているオールラウンドスイマー。現在は、山梨学院カレッジスポーツセンター研究員を務めるかたわら、水泳解説や水泳指導のため、全国を駆け回る日々を続けている

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